艶本江戸文学史

前回「出版されなかったにせよ、ある程度のものが江戸期に、自筆本・写本の形で私蔵されきた証左であろう。」と書いた。
不明を恥じるばかりであるが、林美一の「艶本江戸文学史」を読んで、夥しい数のポルノグラフィが、江戸期を通じて版行されていることを知った。
それも、様々な形態の書物として、江戸期全体を通じてである。(刊行年が弘化、嘉永安政文久となっているのを見ると、ペリーの来航も、幕末の混乱も関係なく、こうした本が出版されていたことに驚くとともに、嬉しさを感じてしまう。)
浮世草子、読本、噺本、滑稽本、洒落本、人情本黄表紙、合巻、根本。
林が取り上げる「艶本」(ポルノグラフィ)は、江戸期の書物・文学の移り行きに即して(さすがに物之本はないものの)地本のあらゆるジャンルに及んでいるかのようである。
しかも、それらのポルノグラフィの印刷の中には、豪華を極めたものもあったらしい。

艶本の中にも読本形式の作品があることを知り、原本を見るに及んで唖然となってしまった。そこには焦茶どころか、金粉・銀粉まで使用し、空摺・キメ出し・漆・板ぼかしとあらゆる技巧を使って絢爛たる錦絵摺の、むしろ一般公刊本の絵本よりも幾層倍も豪華な彩色の挿絵が何図も挿入されているではないか。
                    『艶本江戸文学史』p6 


ここで林が述べている、印刷技法に関しては、私は、詳らかでない。しかし、「絢爛たる」印刷物であることは、かつて二見書房から出ていた「秘蔵の名作艶本」シリーズを読んだ記憶から想像はできる。


これらの「絢爛たる」書物は、公に売られていたわけではないだろう。
かりにポルノグラフィでなくても、庶民の倹約第一の幕府に取ってみれば、「絢爛たる」だけで、規制の対象になったはずだ。
しかし、実際には、夥しい点数が版行され、それらの書物に需用があったことは間違いない。


為永春水は、天保の改革時に処罰されるが、その間の事情を林は次のように書く。

当時町奉行から市中取締三役(隠密廻・定廻・臨時廻)に人情本・好色本の書上げを命じた報告書が伝えられているが、それには六十点を越す人情本が板元別に書き上げられているほか、二十余点の艶本が、やはり板元別に報告されており、その中には『花鳥余情 吾妻源氏』『色のほどよし』『今様三軆志』『秋の七草』などをはじめ、『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦の命取りになったといわれる『春情妓談水揚帳』三冊の書名も見える
  『艶本江戸文学史』p264 


ポルノグラフィが、20数点印刷され、販売されていたことは、間違いない。


これらの印刷部数、販売価格、流通ルートについて、研究が進んでいるのだろうか? 寡聞にして、私は知らない。


いずれにせよ享保八年の大岡越前の出した出版条例の時期、恋川春町達や山東京伝が処罰される寛政の改革の時期、為永春水が処罰される天保の改革時期を除けば、かなり規制はおおらかだったのではないかと思えてならない。


ちなみに、林は『艶本江戸文学史』の中で、恋川春町の『遺精先生夢枕』という黄表紙艶本を公開している。『金々先生栄花夢』シリーズとも言える、なかなか愉快な本なのだが、内容はさておき、

松平定信からの)召喚の対象となった作品も実はこの『遺精先生夢枕』が、夢に託して将軍家斉公の乱行を記したとの嫌疑によるとの一節があるからである。
  『艶本江戸文学史』p231 


林美一は、すぐにこの時期(寛政元年)家斉は十七歳で将軍になって二年目だから、この説はあてにならないと指摘している。
実際読んだ限りでは、大名家の性の乱脈ぶりを、うらやましがっているようにすら読める。幕政を諷したようには思えないが、定信の気には障ったのだろう。


ポルノグラフィの危険度が、ヨーロッパと日本では、異なっていたのではないかと思えている。
サド侯爵を頂点とする、ヨーロッパのポルノグラフィは「哲学小説」と呼ばれるが、基本的には、ロゴス中心主義の社会に対しパトスを対峙し、二元論を突き抜けよう(逆転しよう)とする。それ故に革命思想だった。


それに対して、江戸期のポルノグラフィは、とりわけ人情本の系譜がそうだが、人情や恋情の機微を書いていく。
先鋭的な批判はなく、せいぜい将軍の荒淫を揶揄したとか、婦女子に悪影響をあたえるとかでしかない。


どちらが上質とかいうわけではなく、そのように違うと感じられるだけだ。
その限りでは、締めつけを強化する改革の時期を除いて、規制はおおらかだったのではないかと考えている。


艶本江戸文学史 (河出文庫)

艶本江戸文学史 (河出文庫)

江戸の禁書目録

今田洋三「江戸の禁書」の中に、明和八年の禁書目録が掲載されている。
これは、京都の書物屋仲間がまとめたもので、今田はその背景について以下のようにまとめている。

出版界では江戸根生いの書物屋が急速に力を伸ばしていた。それに圧倒されて、元禄以来、江戸の出版界を牛耳っていた京都の本屋の出店が、つぎつぎと閉店のやむなきに至っていた。
 京都本屋仲間としては、このあたりで結束をかため、守成の実をあげるためにも、さまざまな話合いがおこなわれたであろう。この際、業界の混乱や権力の介入をさけるため、あらためて『禁書目録』が作られたのであろう。それはまた、江戸出版界に対する一つの牽制策でもあったにちがいない。
                    『江戸の禁書』p2 


明和八年(1771)、幕政は田沼が握り、江戸を中心とした文化が花開こうとしている時期である。
4年後の安永四年には、恋川春町金々先生栄花夢」が出版され、黄表紙が一世を風靡するし、10年後の天明期に入ると、蔦屋重三郎が、本格的に出版の中心に躍り出てくる。


京都書店仲間の思惑がどこにあったのかを詳らかに論じる能力は、私にはないが、この目録が、江戸時代の出版規制を伝えていることには、非常に興味がある。
なにより、この目録が、業界の内部文書であることが重要である。
幕府が、この本は、禁書であると指定したわけではない。


すでに、「福沢屋諭吉」の稿で検討した通り、江戸期の出版規制は、享保七年の大岡越前守が出したの出版条目によっている。

この出版条目は、今田の現代語訳によれば、出版禁止事項五条が書かれたあとに

右の定めを守り、今後、新作の書物を出す場合は、よく吟味して商売すること。(略)新板物は、仲間内でよく吟味し、違反なきよう心得よ。
  『江戸の禁書』p6


とある。
実際の運用がどのようであったかは検討する必要があるが、文言だけを読めば、禁止項目の原則だけを決め、業界の自主規制に任せているように、受けとれる。
逆に言えば、「大丈夫」と判断したものが、突如処罰される可能性がある。
いずれにせよ、教会や国家が、一冊ずつ禁書目録を決定したヨーロッパの出版事情とは、少し異なっているような印象を受ける。


さて、禁書目録であるが、五種に分けられている。
第一種は、キリスト教関連。
今田は、38の書名を挙げ、解説を付しているが、マテオ・リッチ(利瑪竇)をはじめとする宣教師や中国のキリスト教徒が書いた(翻訳した)中国語の書物である。
これらは、長崎において、書物改役が舶載の書物を一冊ずつ検閲したと、今田は指摘している。
無論、国内での印刷は、禁止である。


ただし、学校で習った歴史によれば、享保の改革の際、漢訳洋書の輸入制限を大幅に緩和したはずだが、この目録では、禁書になっている。
輸入は緩和したが、出版は禁止したのだろうか?
今田は

書物屋たちは処罰を恐れて。これらの書物を公然とは売買しようとはしなかった。
  『江戸の禁書』p13


と書いているが、とすれば、本屋仲間の自主規制であったのかもしれない。


先の五種の分類で言うと、第二種は、写本で売買禁止になったり幕府の禁忌に触れそうなもの、第三種は完本で絶版になったもの、第四種は京都書物や仲間の判断で理由は不明だが売買停止にしたもの、第五種は素人の出版物、他国の出版物で、京都では取り扱わないものになっている。

以上合わせ、かなりのタイトルが列挙されている。
タイトルを読むだけで、内容までは正しく判断できないのだが、そのほとんどは、神道をはじめとする偽書トンデモ本)、武家をはじめとする家筋・先祖にふれた本、家康の事績(関ヶ原合戦大坂の陣の記録を含む)、将軍家(由井正雪関連・赤穂浪士関係を含む)にふれたものなどである。
建武年中行事略解」という書名もあるが、この本について詳らかでないので推測にすぎないが、後醍醐帝の事績は、禁書だったのか、あるいはこの本自体がトンデモ本だったのか?

ポルノグラフィとおぼしき書名は「百人女郎品定」が見えるだけである。
享保八年停止の好色本、という項目があるから、享保七年の出版条目にいう「好色本の類は、風俗を乱すもとになるので絶版とせよ」という規制に基づき、タイトルを挙げるまでもなく、一律禁止だということのようだ。
なお、「百人女郎品定」については、英一蝶が「百人女臈」という綱吉と愛妾お伝の方の船遊びの絵を描いて処罰されたとも、西川祐信という浮世絵師が「百人女臈品定」という京都朝廷の貴族を題材にした絵を描き、その後「夫婦契りが岡」という枕絵を出版したなどの説が、今田によって挙げられているが、それらを読んでもはっきりしない。
いずれにせよ「百人女郎品定」という本は出版され、その絵も本書に挿入されているので、枕絵はともかく、この本が絶版になったことは確かだろう。


好色本(枕絵はいうまでもなく)は、一律禁書になっていたようだが、実際にはどうだったのだろう。
洒落本は、この禁書目録の前後、寛政の改革まで隆盛を極めるが、これ自体ポルノグラフィとは言えないが、かなり「好色本」ではあろう。
これは仮説であるが、「偐紫田舎源氏」や上記の「百人女郎品定」のように、将軍家や・朝廷、大名家を推測させる(つまり批判揶揄する)ものでない限り、規制は緩かったのではないかと考えている。


藤實久美子は、本書の解説で、「日本書籍書誌学辞典」の禁書の項目に、今田が書いていることを引用している。

江戸時代における「国禁耶蘇書」以外の「絶版書」「売止め書」等の発禁本は、禁書としては登録されず、かつ私蔵・私習まで禁じられていない
  『江戸の禁書』p211


今日、林美一などにより、江戸期の枕絵の研究、出版の試みは進んでいるように見える。
出版されなかったにせよ、ある程度のものが江戸期に、自筆本・写本の形で私蔵されきた証左であろう。


時代は大きく下るが、幕末期、「日本を訪れた外国人を驚かせたのは、春画・春本の横行である(逝きし世の面影 p315)

「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」
  『逝きし世の面影』p316


と書いたのは、トロイ遺跡発掘のシュリーマンだし、

「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごく普通のできごとである」
  『逝きし世の面影』p316


というのは、ロシア艦隊に勤務していた英国人。

「女が春画を見ていても怪しまれない」
  『逝きし世の面影』p316


と驚くのは、ペリー艦隊に随行した中国人である。



幕末の状況を、江戸期全体に拡大することは危険だが、ポルノグラフィの規制に関して、江戸期は、西洋の基準とも、中国の基準とも違うものを持っていたかもしれないという推測をしたくなる。




江戸の禁書 (歴史文化セレクション)

江戸の禁書 (歴史文化セレクション)


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

禁書目録

ポルノグラフィの専門家のだれでもが―――そしてその後継者の多くが―――近代的なポルノグラフィの祖とするのは、一六世紀のイタリアのピエトロ・アレティーノである。
                     『ポルノグラフィの発明』p22


『ポルノグラフィの発明』の編者であるリン・ハントは、そう書いている。


ここで、「近代的な」という語が、重要になる。
いうまでもなく、古代ローマの古典文学には、猥雑なものがたくさんあった。
ルネサンス期の人文主義者は、古典を再発見していく過程で、これらの「猥褻な」もの、キリスト教的に「スキャンダラス」のものも発見してしまう。
上記の本の中の論者のひとりポーラ・フィンドレンは次のように指摘する。

キリスト教以前の文化に関してもっとも誘惑的で、不安を生じさせる二つの要素は、セクシュアリティにたいする態度とその描写であった。人文主義者たちは古典を模範とする文化を作り上げようと試みるさい、キリスト教社会の目標にどんなに背くものであれ、その価値観や習慣と折りあいをつけなければならなかった。ヨーロッパの修道院の書庫を漁ることによって、失われていたキケロの書簡が見つかったばかりではなく、またあからさまにエロティックな文化が存在したことを裏付けるような証拠が広い範囲で明らかになった。こうしたエロティックな文化は、見ないでいることがいちばんいいような行為を描き、のちに自然に反する(コントラ・ナチューラム)と規定された行為を崇めていたのである。
 『ポルノグラフィの発明』p79

ごく少数の人々が、ごく限られたサークルの中で回読するのならば、これらの問題点は秘密にされ、さして大きな問題ではなかったかもしれない。
しかし、印刷は、この秘密を大衆化する。


「エロティックで猥褻な一連の戯れ歌(P80)」である『プリアペイア』というウェルギリウスのものとされる作品は、一五世紀写本として流通していたが、一四六九年以降、ヨーロッパ中でウェルギリウスの全集に含まれる形で印刷された。
一六〇六年に編纂された『プリアペイア』は、「注釈があまりに猥褻すぎると(P82)非難されるが、大衆化に大きく貢献したらしい。


この、「印刷」と(相対的に)広範な読者が入手できることが、「近代的」ポルノグラフィを誕生させることになる。

フェリペ二世のエスコリアル宮殿に掛けられていたティツィアーノのエロティックな絵画はカーテンによって隠され、フェリペ二世が気に入った訪問者にしか見せなかったのだが、その一方で、民衆的な人気版画や書物はほとんどの都会の中心地にある書店で入手できるようになった。エロティックで猥褻なテクストが印刷され出回るようになったとき、さまざまな権威筋が反応したことは、知識の獲得が社会的、知的エリート層にかぎられていた社会から、そうしたエリート層が秘密にしていたことが日常的に無差別に暴露される社会へと不安な移行が進行しつつあることが示されている。(中略)印刷術による新たな交換の媒体の形成は、言葉や図像の流通を限られたエリート層にだけ封じこめようとしてきた、文学愛好家(letterati)の暗黙の盟約をくつがえすことになった。
 『ポルノグラフィの発明』p54


アレティーノの「淫蕩ソネット集」(性交のさまざまな体位を生々しく描いた版画つきの猥褻なソネット集)は、マキャベリの著作などとともに、禁書となる。
ポーラ・フィンドレンが引用する『トリエント公会議による正典目録と教令集』には、次のようにある。

みだらで猥褻な事柄をおおっぴらに扱ったり、語ったり、教えたりする書物は断固として禁書にしなければならない。信仰ばかりではなく道徳もまたこうして書物を読むことを通じてたいてい容易に堕落してしまうので、信仰や道徳の問題を考慮しなくければならないからである。またこうした書物を所有する者も司教によって罰せられなくてはならない。異端者たちによって書かれた古典古代の書物は、優美で質の高い様式のために許容されるだろうが、けっして子供たちに読んで聞かせてはならない。
 『ポルノグラフィの発明』p54


印刷以前、「知」を独占してきた(写本の形で)「徳の高い」聖職者・王侯貴族などは、フェリペ二世のカーテンに隠されたのティツィアーノのように、エロティシズムいっぱいの絵画も猥褻な文章も独占する。
何しろ「徳が高い」のだから、「信仰や道徳の問題」は、考慮しなくてもよいわけだ。
アレティーノはその欺瞞性をあばいてしまう。
「それなら、娼婦は、宮廷人と同じくらい罪深いのかしら」(p101)
やがて、この欺瞞を暴きつくし、哲学的課題にまで高めたところに、ポルノグラフィの頂点としてのサドの文学が生まれることになる。


一方、「禁書目録」に載せたということは、当時の印刷・出版業者・書店に、売れる本は何かを教えるのと同様である。そのことは「宗教改革」の書物を検討したときに確認してきた。

書店の奥にある秘密の部屋で、印刷業者は、急速に増えつつあったエロティックな文学を手に入れたくてたまらない読者の要求を叶えていた。
 『ポルノグラフィの発明』p56


しかも、ヴェネチィアで売られていたアレティーノの本は、ロンドンで印刷されていた、とポーラ・フィンドレンは、指摘している。


ポルノグラフィの発明―猥褻と近代の起源、一五〇〇年から一八〇〇年へ

ポルノグラフィの発明―猥褻と近代の起源、一五〇〇年から一八〇〇年へ

20年を経て


先日、必要があって「リクルート事件」の記事を読むために、朝日新聞の縮刷版を繰っていた。
1989年2月13日の月曜、江副逮捕の記事を探している時、その前日の日曜の読書欄に目が止まった。


まず「パソコンで『本の情報』速く広く」という記事。
初期のパソコン通信の紹介記事なのだが、ニフティの会議室や、パソコン通信で本が買えることなどが書かれている。
さらに、紙面下段には「書物の現在」吉本隆明蓮実重彦清水徹・浅沼圭司共著という広告があり、「活字文化の衰退という俗説を排し、グーテンベルクから電子出版に至る書物の歴史と現在を検証しつつ、今日の出版の問題をするどく剔抉する。」とある。
文体はともかくとして、コピーの内容は「二十年一日」という感じがした。


書物は、あるいは電子メディアは、この20年で実際にどれほど変化したのだろうか。
そのことを確かめたくて、早速、この「書物の現在」を、インターネット経由で購入した。


注文した翌々日に手元に届いたから、本の購入が容易になったことは、まちがいない。


仮に1989年の時点を想像してみれば、その時点から20年以前に出版された本を探しだすのは、よほど売れて版を重ねた本か古典として定着した書物以外は、容易でなかったはずだ。
まして、この本は、大手の出版社が出している本ではない。


書店の客注は、まず無理だったに違いない。かりに版元に残っていたとしても、手元に届くのに2週間くらい、場合によっては1ヶ月はかかったと思う。


多分、神保町や新宿などの大型書店の棚を軒並みに見て回り、あるいは、規模の小さな書店に20年売れなかったものがひっそりと残っていないか、足を棒のようにして探しまくることになる。


ついで、古書店巡り。
それでも見つかるとしたら、僥倖だったに違いない。


探書、という意味では、この20年は「一日」では、なかった。


さて、2日後に入手できたこの本の内容だが、安原顯がプロデューサーとなって開いた、横浜での「文化講演会」での講演集だ。


清水徹の講演が、電子書籍や、書物の「新しい形」に言及している。
清水が予想している「辞典・辞書」類の電子化は、すでにインターネットや、ケータイで実現している。
もっとも清水は、CD-ROMやレーザーディスクで考えているのだが、そのことはいたしかたない。
また、キャプテンやINSを介してDBとつながるだろう、という予測も、インターネットが実現した。
パソコン通信普及の初期の段階で、いい線いっている予想だったかも知れない。


一方、本と映像の融合、本を読みながら必要に応じてビデオ映像を見る、という予測は、はずれたようだ。


ビデオ・ブックのようなものがかつてあったと思うが、まだるっこしくて見るにたえなかった記憶がある。
映像と本が、融合することは実現しないかも知れない。
本を読むという行為と映像を見るという行為のあいだには、同時に行われえない、本質的な何かがあるようにすら思える。(あるいは私個人の資質のせいかも知れないという留保は付けておこう)


吉本は、雑誌というメディアの衰退を「試行」の編集作業を通じて語っているのだが、現在の出版界・雑誌の状態を語っているといってもよいくらいだ。
20年前よりさらに出版をめぐる状況が危機的になっているにすぎず、その危機の本質は、変わっていない。
20年間、手をこまねいてきたわけだ。


今の時点から見れば、もっとも「目」がよかったのは、浅沼圭司だったようだ。

たとえば著作権による書物に対する著者の絶対的な権利と保護などというものも、(中略)ある意味では、書物の知的な内容というものが特定の個人に、そしてその個人が所属している知的階層に所属しているということを明確にして、書物の知的内容は決して一般人の共有物ではないのだ、ということを明示しているのだと解することも不可能ではない。(中略)つまり印刷が普及し、書物が次々と刊行されても、必ずしも一般の人の所有にはならず、学者は、私などもその一人でありますが、学問的タームを独占的に駆使して学壇あるいは論壇というものを作る、同様に文学者たちは文壇を形成していく。そしてかつての聖職者に代って、高度の知的内容の書物を一般人に解読してみせる知的な職業人としての解説者(私を含めた学者もその中に入れてよいのでありますが)、そして一般人に代ってある書物の知的内容の価値を判断してみせる、いわゆる職業的な批評家が、印刷の普及とともに誕生して行きます。(中略)
 ですから、印刷というものは、思いきって単純化して考えますと、人間の中にいかなる階層も認めないような社会、いかなる人間も完全に平等であるような社会にこそ、その姿を最も純粋な形で表すのだということができるのかも知れません。印刷が本来のあり方を完全に開花させているような社会においては、ですから、論壇とか文壇とか象牙の塔などといったものは解体し、そして職業としての解説や批評も、現在のような形では成立しがたくなっているのではないでしょうか。
                      (p38〜39)


おそらく、この20年で、大きく変わったのは、インターネットを介して、(可能性としては)誰もが発信できるようになったことであろう。「ウィキノミクス」な社会は、地滑り的に書物をめぐる状況を変えてしまった。論壇や文壇とかは、浅野の考察通り、衰退(解体)に向かいつつあるという予兆を、私は感じている。

そしてもはや印刷のように、抽象的な間接性むきだしの媒体ではなくて、直接的であるかのような経験をさせる媒体を招き寄せたと言ってよろしいでしょう。問題はあくまでそれが真の直接体験をもたらすものではなく、間接性を残した疑似的な直接体験を与えるのみだということでしょう。 (p45)


これは写真・テレビ・映画に関して述べられた部分だが、驚くほど現在の状況を照らしている。
インターネットが萌芽期にあった時代としては、(大多数の日本人は、その存在すら知らなかったはずだ。ブラウザーmozaicができたのは、1993年)とんでもなく先駆的な考察だったと思う。


私たちの、「書物の現在」は、浅野の考察の延長上にいる。


書物の現在

書物の現在

円本と新聞宣伝


「出版と社会」は、大部の書である。触れられる「昭和出版史」のエピソードは、それぞれ興味深いにせよ、読み上げるのに相当な時間を要した。


まず、私は、著者が「序 出版のパラダイム」で述べている「出版現象の成層構造」などの所論に与しない。
本書30Pに掲載された図によれば、最下層に「4 日常生活」があり、その上に「3 情報」、さらにその上に「2 知識」さらに上に「1 知恵」があるとされる。(円錐として図示されている・また本文中の数字はローマ数字、以下同)

「知」をこの上昇過程と捉え、出版や編集者を、この上昇過程の啓蒙的な導き手のように考えているのがうかがえる。
「知識人と大衆」といった形での捉えかたが、高度に情報化した「資本主義社会」(これを正確になんと呼ぶのかは知らないが)は、こうした考えを無化してきたことは、私には自明のことに思える。
その自覚の上で、現在の編集・出版という営みは、行われているのだと思っている。

 本はこの1から4までを結びつける素材である。マルチメディアの金属箱は、3の情報の機能面を強化するには役立つが、1 2とはあまり関係ない。つまり人工頭脳の作為の世界、ロボット的世界は、人間という生物の存在にとって本来的ではないと思うのである。 (出版と社会 31p)


こうした「啓蒙的」な認識の上に立って

精神公害・社会公害という角度から、生活空間の汚染度を思うと、出版界の関与はじつに深いと思うのである。それはJR・私鉄の中吊り広告の「見出し」が何よりもよく語っているだろう。あれをつくった編集者も、入社した初心のころには、決して、あのような当事者になろうとは夢にも思わなかったのではないか。  (出版と社会 15p)


と現在の編集者を叱責する。
他人は知らず、少なくとも私は、編集者が職業上知りうる情報の多さ少なさの差はあるにせよ(これはたとえば電気会社に勤める人が電気に詳しいのと本質において違いはないはずだ)、「日常生活」を営む人と、知的な差異があると思ったことはない。
そう考えた上で、日々、表現のありようを考えている。


この「出版と社会」は、「円本」を契機として、規模の大きくはなかった日本の出版社が、拡大していく過程を描いている。


新潮社に関しての佐藤春夫の以下の文が、興味深い。

 もともと[佐藤] 義亮氏は改造社の当時の出版ぶりを評して、あのような投機的な出版を見ると小心な自分などは人ごとながらあぶなっかしい気がする。(中略)昔から紙屋は利の細い商いで厘毛の儲を積むみみっちい商法と云われていますが、本屋というものも所詮は活字を刷った紙屋なのですから細い利潤を積む気でかからなくてはと語っていたのを自分は氏の堅実な為人を語ったものと感じ、今も本屋は活字を刷っただけの紙屋の説をはっきりとおぼえている
佐藤春夫「知遇に感謝して」。天野雅司編『佐藤義亮伝』新潮社、昭和二十八年)
                          (出版と社会 194p)


実際には新潮社は昭和二年「世界文学全集」で、「円本」の争いに参加していくのだが、「円本」以前の出版社の経営姿勢、企業規模がうかがえる談話だと思う。


改造社に始まる「円本」は、新聞を使った大宣伝合戦として、本書に描かれる。


宣伝費をはじめとして、投下した資本を回収するための大量の発行部数。
この時期に、出版社の経営形態・経営手法が確立したと思われる。
宣伝媒体が新聞中心であることも含め、「円本」当時と現在と、その販売手法に大きな違いはないように感じられた。


出版と社会

出版と社会

寛政の改革

寛政三年、山東京伝蔦屋重三郎は、幕府から処罰される。京伝著の洒落本三部作『錦之裏』『仕懸文庫』『娼妓絹籭』が処罰の対象で、京伝は手鎖五十日、板元の蔦屋重三郎は身上半減になった。


寛政の改革は、この「筆禍」によって、勃興し始めた江戸の町人文化に冷水をあびせるる出版弾圧であったことが、従来、強調されてきたと思う。
確かに、田沼時代の自由を謳歌する風潮に対し、松平定信の思想弾圧・出版弾圧であったことはまちがいない。


「文武二道万石通」の朋誠堂喜三二(秋田藩留守居役筆頭)は、天明八年(この年、寛政の改革はじまる)に止筆。
「鸚鵡返文武二道」の恋川春町駿河・小島藩江戸詰用人)は、寛政元年、幕府から召喚されたが出頭せず、まもなく死去(自死か?)。
同じく寛政元年、「黒白水鏡」(石部琴好作京伝画)によって、琴好は手鎖の上、江戸払い、京伝は過料に処せられている。


一連の流れの中での、寛政三年の「筆禍」であった。


ところが、驚くべきことに、この時期の江戸の出版界は、空前の出版ブームに沸いていた。

 寛政の改革については、この一件をはじめとする「筆禍」についてとやかく言われがちですが、案外見過ごしがちなことを一つ指摘しておきますと、この改革によって書物景気が起きます。つまり、流通の方で書物の需用が一時に高まります。学問に励まなくてはならないというような風潮を受けて、江戸の本屋さんから「四書五経」の類が払底してしまうというような、笑い話のような事件が起こるのがこの頃です。地本・草紙の業界でも、この風潮にに乗ろうとする動きが見えます。 

                「江戸の出版」 鈴木俊幸談 21p

鈴木は、その著「江戸の読書熱」のなかで、「経典余師」という書物の普及に関連付け、この間の事情をさらに詳しく論じている。
そもそも「経典余師」とは、どんな本か?


これは渓百年という浪人儒者の編んだ経書の注釈書である。平仮名混じりで注釈と書き下し文を示し、独学で素読を会得し、学問の道に分け入ることができるように仕立てたものである。
                      「江戸の読書熱」 P146

この本は、天明六年の『経典余師四書之部』から天保十四年刊『経典余師 近思録』まで十種類出版されているとされ、明治期まで後刷りがあったようだ。
大ベストセラーだったらしく、今、「日本の古本屋」で検索しても「経典餘師 詩経巻之3-5 」2冊で、わずか3000円である。
残っている部数が多いため、江戸期の書物であるにもかかわらず、いたって安価なのであろう。


ちなみに、二宮金次郎・尊徳の銅像が読んでいるのは「経典余師」らしい。


天明六年に出版されたこの本が爆発的に売れたのは、もちろんその直後に開始された「寛政の改革」とタイミングが合ったことが一因であろう。
当時、幕臣ですら(たとえば小普請組)などは、素読などできなかったようであり、寛政の改革が実施した「学問吟味」などに備える「自習書」は、必要だったと思われる。


しかし、それより何より、地方で爆発的に「読書熱」が広まった。


鈴木が、 「江戸の読書熱」で取り上げている、信州埴科郡の中条唯七郎という人物の日記によると、安永の頃には、村内には数えるくらいの本しかなかった。
寛政六年に中条が四書の素読を習ったところ、「出家」か「医者」でもなるのか、と言われたほどだった。
ところが、弘化三年になると

「近年当村辺人気さかしく上品に成候事天地雲泥の違ひ、其昔は無筆ノ者多し、然るに此節ハ歌・俳諧・いけ花芸としてせずという事なし。」 前掲書 p139


知的な環境が整ったことが知れる。


また、本屋に関しても

かつては、(略)書物を買おうとしても、「其題号名目にても不存程の事也」と、その書名すら理解してもらえなかったのが、最近はどのような書物を尋ねても、「即席無之分ハ京都ヨリ取寄遣ス自由也」と、在庫がなければすぐに京都から取り寄せてもらえると記している。書籍需要の高まりが、本屋の質の向上と流通の格段の進歩とを招来しているのである。      前掲書 P140


これらは、寛政の改革を契機とする、地方の知的欲求の高まりを証している。
それに伴い、京・大阪・江戸、三都の版元は、寛政期、地方に新たな市場を発見し、地方への本の流通の整備に力を注ぎはじめたのである。


たとえば、蔦屋重三郎である。彼は、江戸地本問屋であったが、寛政二年に書物問屋仲間に加入する。
当時ブームを迎えた儒学書などの「物之本」の出版を企図したものか?
あるいは、全国流通網の確保を考えたためだろうか?


鈴木が引用している信州松本の書林慶林堂高美屋の日記、文化十二年に、江戸に仕入れに出た際

其節通油丁書林蔦屋重三郎同道ニ而、両国万八楼ニ書画会江行。  前掲書78P

とある。
その席には、十返舎一九山東京伝滝沢馬琴などがいたらしい。


地方の書店主を歓待する蔦屋重三郎
おそらく、旺盛な資本家・起業家として、地方への流通の確保を企図していたと推測できる。



寛政の改革は、江戸期の書店が全国流通への道を開く、大きな契機だったことに、注目したい。


江戸の出版

江戸の出版


江戸の読書熱―自学する読者と書籍流通 (平凡社選書 227)

江戸の読書熱―自学する読者と書籍流通 (平凡社選書 227)

世界をリスト化する

「声の文化」の特徴の第一にJ・オングがあげているのは、それが累加的(additive)であるという点である。
16世紀のドゥエー版聖書に、「声の文化」の残存を見ている。
なかなか興味深いので、引用する。

 はじめに神は天と地を創造された。[そして]地は形なく、むなしく、[そして]やみが淵のおもてにあり、[そして]神の霊が水のおもてをおおっていた。[そして]神は「光あれ」といわれた。すると[そして]光があった。[そして]神はその光を見て良しとされた。[そして]神は光とやみとを分けられた。[そして]神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。[そして]夕となりまた朝となった。
                     声の文化と文字の文化 84〜85


訳者によれば、[そして]は、原文のandである。
「声の文化」では、分析手語り口(思考)ができず、えんえんと時系列に沿った話を積み重ねていくのがわかる。
また、一方で、「声の文化」では、「人間的な行動のコンテクストを欠いた抽象的で中性的なリスト[一覧表]」をまとめることができない。
私たちは、たとえば旧約聖書「創世記」や「民数記」で、「イラデの子はメホヤエル云々」という記述を読むが、それもまた、「イラデの[つくった begat]子はメホヤエル、メホヤエルの[つくった]子はレメクである」(p206)と累加的であって、しかも中性的なリストではなく、「人間と人間との関係を記述し説明」(p95)したものである。
そもそも、定型の「〜のつくった子は〜」という繰り返しを、歌うようにか、唱えるようにしなくては、覚えておくことはできなかったに違いない。
「文字の文化」は、この思考法に、決定的変化をあたえた。

紀元前三五〇〇年ごろにはじまるシュメール人楔形文字スクリプトにおいては、そのほとんどすべてが勘定の記録である。
                           前掲書 205p


 それが広まっていく過程で、私たちの祖先は、抽象化した商品(たとえば羊)と価格を分類し、抽象化し、リスト化したはずである。
 それのスピードが、さらに急速になるのは、印刷術の発明によってである。
 リスト化は、語彙にまで及ぶ。
 印刷術の発明以前、「全体的で包括的な説明を試みるどんな辞書もつくられてはいない」(p223)

『ウェブスターズ・サード・インターナショナル大辞典』でも、あるいはそれよりずっと小さな『ウェブスター学生辞典』でもいいが、そうした辞典のその比較的正確な手書きの写本を、たとえ二、三ダースでもつくるということがどういうことなのかを考えてみれば、すぐわかる。このような辞書[の世界]は、声の文化から限りなくへだたっている。書くことと印刷が意識のありかたを変える、ということがどういうことかを、これほどはっきりと示すものはない

                          前掲書223p


印刷術による、分析的・抽象的分類は、やがて「索引」を生み、チャート化し、私たちの思考法そのものを変えた。


インターネットの普及によって、辞書は、さらに紙からも脱却しようとしている。
今年、いくつかの用語辞典が、紙媒体を棄てたことは、記憶に新しい。

そして、コンピュータは、瞬時のうちにリストを縦横に組み換える。
今は、紙媒体の延長線上にある高速化だが、私たちは、新たな抽象的思考を始めるのだろうか?