無聊について

 私は基本的に時間に対してとてもケチなのです。ですから、時間を投資したものについては、何らかの形で回収しようとします。本についても同じで、「読み終わっておしまい」では、本代も時間も、もったいないと思うのです。
                    勝間和代 『読書進化論」』p21


勝間和代の読書法について、とやかく言うことはない。
基本的に読書自体は、現在では個人の行為であり(口誦が中心であった時代については、すでに論じてきた)、その限り、いかなる読み方も許容されるはずである。実際、勝間和代自身、「楽しむために読むエッセイや小説などは別です。」(p73)に書いていることを付記しておく。


私に関心があるのは、この「ためになる読書」が、いつどのように、成立したかの手がかりを知ることである。


ガブリエーレ・シュトゥンプは「読書行為と憩い」という論文の中でJ・A・ベルクの『書物を読む技術』(1799年)を引用している。

「単に時間を潰すために行なう読書は不道徳である.なんとなれば我らが生は毎分ごとに義務に満ちており,それをおろそかにすることは,罪人の烙印を押されることなしにはゆるされぬことだからである」
                『シリーズ言語態3 書物の言語態』p233


プロテスタンティズムの(あるいは資本主義の)倫理を強く感じさせる文言だが、本来、「読書」という行為は生産性の観点からいえば、一部の知識人の場合を除き「不道徳」なものであったことは、想像に難くない。


日本でいえば、「読み聞かせ」という音読が主体であった時期、その行為は「憩い」であった。あるいは、「無聊」を慰めるといっていいかもしれない。六代目圓生は、「浮世床」の中で、「そんな皮肉なこと言わずにさァ、みんなここにいるやつァ退屈をしてェるんだから……読(や)ってもらえませんか?……だめ? どうしても」(『古典落語 圓生集(下)』203p)と語っているが、要は退屈しのぎであった。


黙読が読書の方法の中心となった後も、部屋にこもり、黙々と本を読む少年・少女は、きみの悪い存在であったであろうし、商家や農家にとって、生産性に寄与しない「読書」という行為は、悪であったはずだ。

 憩いは古典古代以来,哲学的観想という生の形式と見なされ,質的時間の諸観念と結びついてきた.ゆえにそれは,労働時間の単なる残余としてとらえられる暇で自由な時間とは無縁である.これに対して,憩いの不完全な形態である無聊は,徹底した享楽主義,浪費,自堕落などを指す.しかしこの両者が1800年前後には,共に勤労倫理の側からの弾劾に晒されることになる.この倫理は,あらゆる非労働的存在に,怠惰および時間と金銭の浪費という咎を等しく負わせることをやめないのである.
                『シリーズ言語態3 書物の言語態』p231


こうした「倫理」に対し、「読書」は、自らの存在理由、「価値」を主張しなくてはならない。
『それが「人格的個性」の創成に貢献』(前掲書p231)するという想定であり、シュトゥンプは、これこそが1800年前後「人類的普遍的」基準となったと書いている。

すなわち,文字どおり私的で,他から隔絶された領域である読書行為の「遮断・庇護された空間」は,個性の理想的形象となる.
                『シリーズ言語態3 書物の言語態』p232


読書によって、人格を形成し、教養を得ること。
「ためになる読書」が、誕生したといえる。


しかし本当は、「遮断・庇護された空間」であるが故に、逸脱は起こるはずだ。
シュトゥンプは、この論文で「病的な読書嗜好」として、ゲーテを論じていくのだが、ドイツ文学に暗い私は、その先の当否を論ずる能力がない。
いずれにせよ「ためになる読書」が、読書という行為の理由付けに必要となり、いまもその理由付けが効力をもっているといえる。
そして、その理由付けからの逸脱こそが、「読書のユートピア」ではないかという、予感が、私にはしている。



文脈からすれば、正しい引用ではないが同じ本の中でベルナール・シュティグレールが次のように述べている。

したがって「読むとは何か?」という問いは「時間とは何か?」ということを意味する
                『シリーズ言語態3 書物の言語態』p301



書物の言語態 (シリーズ言語態)

書物の言語態 (シリーズ言語態)