「多くの書を作れば際限がない」 伝道の書

アルベルト・マングェルの本は、『世界文学にみる架空地名大事典』にしても、『読書の歴史─あるいは読書の歴史─』しても、読む者を(少なくとも私を)幸福な気持ちにしてくれる。
ある人々はペダンチックと言うかもしれないが、その博識には圧倒され、「読む」こと(「読む」という行為のもつ)の幸福感に浸れるのだ。

思春期のころの私は、夜ごとに部屋の棚が、まるでみずからの意志をもつかのようにいっぱいになり、どんな小さな隙間さえも埋められてゆくという情景を、一種の怖れを持ってうっとりと眺めたものである。新しい本は、大昔の写本を集めた図書館のように平積みにされ、しだいに高くなっていく。日中は与えられた場所にきちんと置かれていた古い本が、二冊、四冊と積み上げられ、新しい本の場所を侵食する。床一面、部屋の片隅、ベッドの下、机の上など、あたり一面、本が柱のように積み上げられてゆく。ゆっくりと成長していくありさまは、まるで寄生生物の森を思わせ、ぐんぐんと育っていく幹は私を追い出そうとしているかのようだった。
                    『図書館・愛書家の楽園」』p66~67 


実際、この情景は、今私がこれを書いている部屋そのものだ。
寄生生物の森のただ中で、私は、本を読み続けている。
あるいは、その森の木々をわずかずつ食い荒らす、別の生物なのかもしれないと自嘲してしまう。

マングェルのサイトを見ると(http://www.atelieraldente.de/manguel_0h4/photos/index.html)、その書斎は垂涎ものである。
同様に、三菱ホームのCMの、『図書館のある家』(http://www.mitsubishi-home.com/cm/)が、テレビで流れるたびに、食い入るように見てしまう。どんな本が並んでいるか(それは、河出書房の『今日の海外小説』のシリーズであったり、白水社の『小説のシュルレアリスム』のシリーズであったりするように見えるのだが)、魅入ってしまう。
しかし、マングェルは言う。

どんな図書館でも、空いた棚はいつまでも空のままではない。自然と同じく、図書館も空白を嫌うのだ。    
                    『図書館・愛書家の楽園」』p66


私は何故、かりにこの先毎日1冊ずつの本を読みつづけても、余命を冷静に計算すれば、まず読み切れないだろう本の森に囲まれながら、なお本を買い続け、細々と読みつづけるのだろうか?

フローベルの描く描くふたりの道化が発見したのは、私たちにとってつねに周知のことでありながら、めったに信用しない事実だった。つまり、集積しただけの知識は知識にならないということである    
                    『図書館・愛書家の楽園」』p86

いうまでもなく、「フローベルの描く描くふたりの道化」とは、「ブヴァールとペキュシェ」のことだが、このマングェルの指摘は怖い。


しかし、かりに十全な(スペースの問題を考慮しない)「理想の図書館」があるとしたら、それは、世界そのものになるだろう。
何度もこのブログで書いたように、ダランベールの夢とは、世界を記述し、集積するという不可能性にあったのだと思う。

「図書館は秩序と混沌の場というだけではない。それは偶然の場でもある。書架と記号を与えられたあとですら、本はそれ自身で可動性を保っている。本ならではの計略をもって、思いがけない陣形を築きあげる。類似性、年代記のない系譜、共通の関心やテーマといった秘密のルールに従う。目につかない片隅に放置され、またベッドサイドに積みあげられ、あるいは段ボール箱のなかや棚の上で、本はいつか遠い将来、整理され、分類されるのを待っているが、その時はなかなかこない。本のなかに貯蔵された物語は、ヘンリー・ジェイムズのいう「共通の関心」のまわりに群がる。「共通の関心」は往々にして読者の目にとまらない。「真珠をつなぐ糸、埋もれた宝物、絨毯のがらにまぎれた形」なのだ。
                    『図書館・愛書家の楽園」』p151


私たちは、毎日、この混乱の中に「絨毯のがらにまぎれた形」を偶然発見する。
それは、ことの当否は置くとして、少なくとも私なりの仕方で、世界を再解釈していく手だてであろう。
もう一度言えば、それは不可能性への夢だとも言える。


 伝道の書(あるいはコヘレント書)のよく引用される一節―――「多くの書を作れば際限がない」―――には二つの解釈がある。一つは、そのあとに「そして、多く学べばからだが疲れる」という言葉が続くとする解釈であり、本をすべて読みつくすのは不可能だというあきらめをあらわす。もう一つの解釈は、歓喜をあらわし、神の恵みに対する感謝の祈りとみなすものである。この場合、「そして」を「しかし」と読みかえ、「しかし、多く学べばからだが疲れる」とつなげる。(略)メソポタミアにおけるある日の午後を端緒として、数えきれないほど大勢の読書家が「多くの書」にたどりつこうとして、「からだが疲れる」のも厭わず、飽きもせず、道を開きつづけている。読書家たちは、本のなかに心引かれる魅力を見つけ、その魅力によってページをしっかり自分のものとするが、そのページは魔法によって、一度も読まれたことのないかのように、手垢のついていないみずみずしいものとなる。図書館や書斎はこのような魅力の詰まった穴蔵であり、宝の箱なのだ。     
                    『図書館・愛書家の楽園」』p199〜200


私たちは、本のなかで「過去」に出合うのではなく、「未来」のアスペクトに出合うのである。
本を読むとは、時間について、問うことでもあるのだから。


図書館 愛書家の楽園

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読書の歴史―あるいは読者の歴史 (叢書Laurus)

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世界文学にみる 架空地名大事典

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ブヴァールとペキュシェ (上) (岩波文庫)

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