読者・語り手・作者
「読者はどこにいるのか」というタイトルは、現在、多くの出版社の人間、編集者にとって、切実な問いに違いない。
むろん、石原千秋のこのタイトルの意味は、売れ行き不振に悩む出版社に対する指南ではない。
「文学理論」として、書物に対峙した時の「読者」の位置、あるいは「読む」という行為のポジショニングを問うているのである。
最先端の「文学理論」が、現在どのような位相にあるのかについて、詳らかではないし、興味もない。
あるいは今現在、大学の文学部のキャンパスにおいて、文学がどのように読まれているのかにも関心はない。
ただ「読む」という行為の、今日的意味に関しては、少なからず興味はある。
石原は、かつての読書を「作家論パラダイム」と呼ぶ。
いいかえれば、「教養主義」を基礎とするの読み方としてとらえている。
この間の事情は、竹内洋「教養主義の没落」に詳しいが、かつて、読書は「作者」のご託宣を聞くかのように、書物を読む行為であったと思う。
小林秀雄の「全集を読む」ことをすすめる文書を引用しつつ、石原は、次のように書く。
研究論文でも、「ここに漱石の肉声が響いている」といった巫女さんのような言葉が結論になったり、「これが漱石が晩年に到達した境地であった」と作家の成長物語が語られたりと、なるほどその作家の「真実」が書かれているとして。「ほんの片言隻語」が新たに「発見」されたりしたものだ。
作家論パラダイムにおいては、「真理」は作家の側にあるのだから、極端に言えば、読者は自分が読者であるという意識さえ持ってはいなかっただろう。読者は自分を消して、作家の「真理」に触れたと感じられさえすればよかったからだ。 p23
1960年代後半〜70年代初め前後を振り返れば(私自身と私の周辺にいた人々から感ずるわずかな体験に過ぎないが)、マルクスでも、吉本隆明でも小林秀雄でも、「作者」が誰であれ、「読む」という行為は、「作者」が知的努力の果てにたどり着いた高みから発せられる思考を、読み解くことであったと思う。
とりわけ、大学生は、教養主義の残滓をかかえており、その学生の感性と実態としての大学との齟齬が、全共闘運動のひとつの原因であった点は、小熊英二が「1968」という大部の書の中で、詳しく論じている。
この「教養主義」は、竹内の前掲書では、1970年代に崩壊する。
教養主義の終焉は、これまで見たような支持的社会構造や支援文化の崩壊という消極的要因だけによるのではない。決定的な、つまり教養主義の積極的要因は、一九七〇年代後半以後の「新中間大衆社会」の構造と文化にある。
「教養主義の没落」
「読者」は、この「教養主義の終焉」以降、「大衆消費社会の読者となった」(石原前掲書・p68)のである。石原は「いま私たち読者はかつての教養主義時代の読者とは違って、分厚い層をなした消費者として、書き手に自分達を意識させるだけの権力と政治力を持った」(石原前掲書・p68)と続ける。
では、「いま私たち読者」は、どこにいるのか?
しかし近代以降、小説の読者は書いてあることはホントのことだと思わなくてもいいという約束事が成立した。そこで小説の読者は、作者のことは忘れて、自分の好きなように解釈できる自由を手にすることができたのだ。 p100
石原は、この後、「自由に解釈していいと思うこと」と、「実際に自由に解釈すること」が、同じではないことを指摘し、私たちが「大衆消費社会」の「内面の共同体」に縛られていることを証すが、カルチュラル・スタディーにつながるこの分析は、興味深いにせよ、私の当面の課題ではない。
少なくとも、私たちは、書物を(とりわけ小説だが、小説とは限らない、場合によってはマルクスをご託宣としてではなく、好き勝手に読むこともできる)自由に読むことができる。
受容理論とは「文学作品というものを、完成したものではなく、どこまでいっても未完成なものである」と考えることになる。それは、あたかも「塗り絵理論」のようなものだと言うのである。「塗り絵理論」とは、読書行為はたとえば線で書かれただけの「未完成」な人形の絵を。クレヨンで色を付けて完成させるようなものだとする考え方である。 p103〜104
書物は、未完のまま、私たちの前に投げ出され、「読者」は、読むことで、書物を完成させる。
では、書物の、あるいは小説を語っているのは、誰なのか?
小説論として考えれば、小説の構造としての全体性(=「私」の内面)は「語るいま」という時制が保証し、同時に「語るいま」という時制によって制限されるということだ。語り手は常に<いま・ここ>で語るが、それを読む読者が体感するのは、小説テクストが書かれたその時ではなく、読んでいる「いま」である。こうして「いま」という時制が浮上する。「語るいま」は、作者ではなく語り手の行為そのものの時制である以上、まさにそれこそが「いま」小説テクストを読んでいる読者の領域なのである。語り手とは読者だったのだ。語り手は姿も見えず声も聞こえないとすれば、読者もまた小説テクストにおいては姿も見えず声も聞こえない。読者には小説テクスト
に対する態度があるだけだ。 p156
「小説論として考えれば」と慎重な前置きが書かれていることもあって、ここで述べられているのは、理論としての「作品」に内在する「読者」であろう。
私が、思い出したのは、ジョイスの小説である。
「機械という名の詩神」中で、ヒュー・ケナーは、「若い芸術家の肖像」を引用しながら
通常なら、読み手と書き手の共通基盤をなすような、文学作法に則った、ほとんど気づかれない形の形式が姿を消している。普通、語り手は、この共通基盤を足場に、登場人物の奇妙な振る舞いの意味を説明したり、引用符を用いた台詞を挿入してある人物に自分の振る舞いについて語らせるなどして、読者に援助の手を差し伸べるはずである。しかし、語り手による語りという形式が姿を消すということは、実際問題として、語り手も姿を消したことを意味する。そうなるとわれわれは、テクストが暗に示すもの―――中略―――を自力で読み解かなくてはならない。
ケナー・前掲書 p87
ケナーは言う。「ただひとり、ジョイスだけは、印刷物にものを書くということの意味を最初から理解していたように思える。」 ケナー・前掲書 p90
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