漱石の「本棚」


紅野謙介は、「書物の近代」の中で、漱石の「書架図」に注目している。
夏目漱石遺墨集』に収められているこの絵は、紅野よれば以下のようである。
(「書物の近代」93pにモノクロ図版が掲載されている。)

「書架図」はその題が示すとおり書斎の本棚と壁の交差する一隅を描いており、不揃いな棚のあいだに色とりどりの書物の背が並んでいる絵である。(91p)


明治村に、いつの時期のものかはHPには書かれていないが、漱石の書斎が再現されているようだ。明治村常設展示のコーナーで紹介されている小さな写真でも漱石の書斎の本棚が確認できる)
http://www.meijimura.com/103/02.html


イギリス留学を終え、1903年(明治36)に第一高等学校教授に就任、兼ねて東京帝国大学文科大学の講師という、この時期の超一流の知識人であった漱石の書斎に、「本棚」があったことは当然だろう。


しかし、明治期以前、「本棚」というものは、日本の家屋に存在しない。

和装本の蔵書は積み重ねられるものであって、並べられるものではない。したがって和書では背は問題とならず、表紙の装幀や題簽に情熱が注がれる。(92p)


神保町の大屋書房*1のような和書を扱う古書店に入ると、和本が横積みにされるか、表紙を表に向けて置くことしかないのが実感できる。
日本の近世の本は、背がないから立てられないのだ。


一方、写本時代から複数の折帖をまとめて冊子状態にする(コデックス)洋書には、背がある。
「吾輩ハ猫デアル」の装幀で「天金(上方の小口に金箔がついている)」が施されていたのは、本を棚に立てておくことを前提にし、埃がつかない工夫であった。
本の背は、角背である。


ところで「本棚」に本を並べるとは、意識的にであれ無意識的にであれ、配列の秩序、分類を要求することである。
しかも私たちは、並べ終えた「本棚」を一望し、その秩序を視覚化できる。


唐突だが、ジョン・バッテル の評判の本「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」に、以下のような記述がある。

人類は記号言語を発明した時から、記録され保管された情報を検索しており、そのインデックスや文書は古くは粘土板に刻まれていた。しかし分類と情報検索のテクノロジーは、印刷機が普及して印刷物が一般化するまでは実用化されることはなかった。
 現代図書館の父とされるメルビル・デューイ(一八五一〜一九三一)は一九世紀末に、図書十進分類法を発案し、ネットディレクトリのような構造でテーマごとに十進法に基づいて図書を分類した。このデューイ十進分類法はその後幾度となく改良され、世界的に広く採用されているが、このテーマごとの分類は巨大なWWWには適用できなくなった。(51p)


サーチエンジンの今日的問題は置くとしても、「印刷物が一般化」することで、「分類と情報検索のテクノロジーは」「一九世紀末」に実用化された。


「書物」を並べることは、その配列による秩序を生む。
「本棚」を介在として、私たちは「書物」同士の秩序との関係を結ぶのだ。


近世の立てて並べられない和装本の秩序から、「本棚」の秩序へ。
それは、近代の知の秩序をもとにした、「読者」と「書物」との関係の変容であったに違いない。
(そして、あるいはサーチエンジンは、その近代の秩序を解体させるのかも知れない。)


漱石の「本棚」は、当時の知識人として先駆的に、近代の知の象徴であった。
一般の大衆の家が、ある程度の冊数の本を保有し、「本棚」を持つのはずっと遅い。
「書物」は、高価であった。


本が普及するのは、おそらく1926年(大正15)から1929年(昭和4)の「円本」ブーム以降であったかもしれない。
あるいは、地方格差や階級格差を考えれば、それよりもかなり遅いことも推測される。


いずれにせよ「本棚」と同時に、近代の知の秩序は家の中にやってくる。


書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫) ザ・サーチ グーグルが世界を変えた