自ら「書物」を作る「作者」


私事を言えば、出版社に勤務し原稿を書くようになったのは、1970年代の後半のことだ。
原稿を書き始めるにあたって一番最初にする作業は、レイアウト用紙に指示された字数・行数通りに、400字詰め原稿用紙に線を引くことであった。
分かりにくいかも知れないが、たとえば、20字×3行、19字×2行、18字×1行etc.…の指示通り、原稿用紙に印をつけていく。その印に合わせて、原稿を書くわけだ。
とりわけ、女性誌の切り抜き写真に沿ったキャプションなどの場合、レイアウト上の文字組みは複雑になる。
縦組み・横組みが混在しているし、先の例で言えば19字の1行目が一文字と句点で終わって改行では、レイアウトの意図にあわないブランクができてしまう。
見た目の美しさを意識しながら原稿を書くために、字組みに合わせて原稿用紙に線を引くことが必須の作業であった。


雑誌の編集の現場を離れて久しいので、コンピュータ上で、今、どのように作業をしているかは詳らかでない。
少なくともwebマガジン上では、こうした見た目は意識してこなかった。
どうやっても、読む側のブラウザーや環境に依存して、レイアウトは変化してしまうからだ。


紅野謙介の「書物の近代」の中に島崎藤村の『破戒』の冒頭の原稿と、出版された『破戒』の冒頭ページの写真が載っている。(117p)

かれは原稿を書くにさいして清書を三十六字、十二行の特別あつらえの原稿用紙でおこなった。「島崎氏製」と隅に印刷されたその原稿用紙の字数、行数は『破戒』の本文組みと同じである。用紙にはさらに上段に横書き用の囲みがある。第一枚目にはその左端にページ数の1が、横には「ナシ」と書かれている。『破戒』の本文のページを開いてみればわかるように、この一枚めが一ページにあたり、二ページ以後は「破戒」の表題が本文の上に横に印刷されている。本文タイトルは二号、作者名と章句は四号、本文五号と、活字の大きさまで、藤村自身の手蹟で書き込まれている。(116〜118p)


わたくしたちが雑誌の原稿を書いてきたのと同じ作業を、藤村はしている。


藤村は、『破戒』を「緑蔭叢書」として出版した。
「緑蔭叢書」の趣旨説明には、「藤村の著作を刊行するもの」とあり、自費出版である。
というよりむしろ、藤村が自前の出版社を作ったと考える方が、正確であるように思える。


『破戒』出版の時点で藤村は『若菜集』をはじめ数冊を春陽堂から出版し、すでに著名な作家であったし、紅野によれば、

『破戒』の出版計画を知った金尾文淵堂の主人金尾種次郎が藤村に接触して、出版を申し入れている(122p)


金尾文淵堂は、薄田泣菫の本を出すなど、大坂で屈指の出版社であったらしい。
つまり藤村は、無名であったがゆえに、自ら起こした出版社で『破戒』を自費出版したわけではない。

自費出版は小説=書物を完全に掌握する主体としての作家像を生み出した。(120p)


『破戒』の出版は、1906年明治39年)。
漱石のような例外を除けば、作家は、江戸時代以来の戯作者と版元の関係のなかにあった。版元の力が強く、作家は従属的であったと紅野は指摘する。
藤村の試みはこの関係を打ち破り、経済関係のなかで自立した近代の「作者」を生みだすためのものだった。


ここで想起されるのは、バルザックだ。
バルザックは1825年に出版業をはじめ、赤字になると印刷業、活字鋳造業にまで手を付けて、最後に破産宣告を受ける。
バルザックもまた、出版社にいいように搾取される「作者」を自立させるという意図で、やや誇大妄想的ながら、次々と事業を始めた。
藤村の事業は成功したとは言えないが(後に「緑蔭叢書」の版権は、新潮社に売却される)、近代の「作者」を誕生させることになった。
同時に

自費出版によって初めて、自分が書きながらもただ版元に渡していただけの小説が活字化され、書物になって販売されるまでの過程を把握することが可能になったのである。(120p)


藤村の『破戒』は、

ことばのつらなりを視覚的に追っていく読者の目の運動を想定して(120p)

書かれていた。
それが、あの原稿用紙を必要とさせた。


「書物」の秩序にあったテクストが生まれる。
これも近代の「書物」の要件である。


書物の近代―メディアの文学史 (ちくま学芸文庫)