「吾輩ハ猫デアル」の価格


樽見博「古本通」は、現在の古本の市場、流通をコンパクトにまとめた興味深い好著だが、その中に気にかかる一文を見つけた。

夏目漱石の『吾輩ハ猫デアル』は、現在紛うことなき国民文学である。しかし、この明治期の豪華な本は、刊行当時三冊で二円七十五銭、庶民に手の届く本ではなかった。因に尾崎紅葉金色夜叉』五冊は二円四十銭、与謝野晶子『みだれ髪』三十五銭、石川啄木『一握の砂』六十錢。明治末期の東京板橋の一戸建て借家の家賃二円八十銭、上級公務員の初任給五十円、現在の物価に換算すれば、五千倍から一万倍以上とみてよいのではないだろうか。文芸書の代金などという問題は、通常の研究では扱われないが、当時の文学がどういう位置、いわばどういう階層の人々を対象にしたか、そうしたことを考える情報も古本には内包されている。(98p)


「吾輩ハ猫デアル」の価格が高いという評は、発刊当時からあった。
紅野謙介の「書物の近代」に以下のような記述がある。

小島烏水の編集する雑誌『文庫』(明38・11)の「六号活字」欄には「夏目漱石吾輩は猫である大枚壱円、金が余って困って居る人でなければ買ふべからず。くれても読むのが惜しいヤ」(略)これに対して漱石は二版を一冊、烏水に進呈するよう取り計らった。(85p)


やはり紅野の記述を要約しながら「吾輩ハ猫デアル」の装幀を見てみよう。
まず、本の上方の小口には金箔がついている。(埃除けになる)
各ページのめくる側の端は切っておらず(現在でも洋書で時折見られる。ペーパーナイフで切りながら読む)、背は角背。
表紙の紙質は模造皮紙、ブック・ジャケット(カバー)は羅紗紙。
装幀は東京美術学校を出たばかりの橋口五葉が行っている。
判型は菊判、上篇290ページ。
本文は五号明朝で、一行32字、1ページ14行。
価格は、上篇90錢。
先の樽見の換算に基づけば、現在の価格では、上編だけで五千円から一万円以上か。

(「吾輩ハ猫デアル」の装幀は、以下のURLで見ることができる。)
http://www.aurora.dti.ne.jp/~ssaton/bungaku/neko.html



豪華本である。一般大衆が、気軽に読める「ユーモア小説」であったわけではない。


日本で活字出版が本格的に行われるのは、開国・維新を経てからである(戦国時代後半、一時的にキリシタン本等の出版があったが)。
江戸期の木版出版は、鎖国の下、独自の発展をとげていた。
近世の「書物」のことはいずれ考えなくてはならないが、たとえば山東京伝黄表紙を現在の私が読もうとすると、見開きに描かれた浮世絵風の絵と、書き文字がそのまま彫られた文字が渾然とし、どこから読んでいいのかすら困惑してしまう。*1

段落も、句読点もない。
近代と全く異なる「書物」とテキストの秩序が、そこにはある。

明治期の活版出版がはじまると、日本語の表記の秩序から構築しなくてはならなくなった。句読点、段落、括弧。
二葉亭四迷尾崎紅葉たちを経て、近代の小説、あるいは表記の秩序が確立されていく。
その総決算として、「吾輩ハ猫デアル」は、登場したのではないか。


紅野は、次のような漱石の言葉を引用している。

ただ自分の書いたものが自分の思ふ様な体裁で世の中へ出るのは、内容の如何に関らず、自分丈は嬉しい感じがする。(86p)

うつくしい本を出すのはうれしい。高くて売れなくてもいいから立派にしろと云つてやつた。何で[も]挿画や何かするから壱円位になるだらうと思ふ。到底売れないね。うれなくても綺麗な本が愉快だ。(108p)


明治38年、1905年、20世紀の初頭。
漱石という「作者」は、自らの文学を支える器として「自分丈は嬉しい」「書物」を作った。
それが結果として、価格を度外視した豪華本となったのである。
漱石によって日本の近代文学が誕生した時、近代の「書物」も日本に登場した。


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