公共の場所での音読
永嶺重敏が『雑誌と読者の近代』で引用している、明治期の汽車の車内での音読に関する新聞・雑誌記事は、現在と異質の「読書空間」が日本にあったことを教えてくれる。
「汽車の中に入れば、必ず二三の少年は、一二の雑誌を手にして、物識り貌に之を朗唱するを見るべく」(明治二五年の記事 以下同)
「今尚ほ田舎の汽車中にて新聞雑誌抔を独り高声に誦読するもの少なからず」(明治二八年)
「書を携ふるもの僅に一人、東大の紀章をつけたる一青年が内田魯庵氏の『社会百面相』を繙けるのみ。しかも、渠、文学的趣味を以てこの書を読むにあらざるが如く、書に対するやつねに朗々として音誦し、三四ページを読了したりと思はるるや忽ち横さまに偃臥せし」(明治三五年 一部表記を変更) (44〜45p)
等々。
もっとも驚いたのは「平民新聞」の投稿で、新聞を読んでいると隣に座った乗客がのぞき込んで「声高く」音読することがよくあるが、社会主義的に見てそのまま読ませるべきか、という明治三七年の質問である。
「平民新聞」は、この年、堺利彦が禁固に処されているし、やはりこの年「共産党宣言」を訳載し、発禁になっている。
かなり危険なことをしているように、感じてしまう。
いずれにせよ、明治四〇年頃まで、列車の中、駅の待合室の中は、音読の声が満ちあふれていたらしい。
ケータイの通話どころの騒ぎではない。
しかし、明治四〇年代には、
こういった交通機関での音読に対しては次第に厳しい視線が向けられ始める。(45p)
と、永嶺は書いている。
ケータイと違い、列車内での「音読」禁止のお願いや、規則はないようだ。
一方、規則といえば、図書館での「音読」禁止の規則は、存在する。
しかもかなり長い期間続いている。
永嶺は、各図書館のこの規定を表にしているが、ほぼ明治、大正、昭和も戦前まで、存続している。
制度は常に現実の後追いであることを考慮にいれても、このことは図書館規則を制定する人々の意識中に、その時点でなお音読禁止条項が必要であると判断されたことを意味している。(51p)
図書館は、「音読」が一般的な社会の中で、規則の壁に守られた珍しい「黙読」空間だった。
永嶺は、明治二四年に上野の図書館を訪問した女流作家清水紫琴の感想を引用し、
幾百人が読書しているにもかかわらず、異常なまでの静寂を無人境の様に感じている。集団的音読慣習が一般化していた社会にあっては、声を出さずに大勢の人間が黙って読書している光景はそれまでにない新しい体験であった(56p)
と、まとめている。
さらに、明治三六年の旅行雑誌『旅』には、帝国図書館について
館内数百の人々頭を抑へ、黙読静視の謹状、……地方出京の父兄は一度びこの無言の業を修る学堂の見物(といっては穏やかならねど)をして、国への土産話にし給へかし(57p)
という記事がある。
「黙読」する人々は、観光旅行のコースに入るほど、珍奇な光景だったのである。
cf.大阪府立中之島図書館のHP参照
http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/34_mdoku.html
明治30〜40年代。
明治39年が1906年であるから、わずか100年前の出来事である。