印刷されたページの視覚的装置
永嶺重敏が指摘する「音読」の証拠は、列車内の他、新聞縦覧所・監獄・学校寄宿舎などである。
特に学校寄宿舎では「音読室」が設けられたり、「黙読時間」と「音読時間」を分離するなどの方策がとられている。
いずれにせよ、20世紀はじめまで、日本の読書空間は「音読」の声にあふれていたことは疑いようがない。
騒がしい国だったのである。
「音読」が、わが国で長く続いたのは、
- 近世以降、「読み聞かせ」という形態が根強く残ったこと
- 漢文の素読が、近世の学習法の基本だったこと
- 近代に入っても、「暗記(暗誦)」の中心に取り入れられていたこと
などが、思いつく。
永嶺は、明治30〜40年頃を、「音読」から「黙読」への移行の時期にあげている。
その理由として、公共の場で「音読」することへの人々の視線の変化などいくつかのことをあげられているが、最大の原因としているのは「活版印刷本」の普及である。
永嶺が引用している、明治34年のある本屋の新聞投書は、重要である。
「徒然草は無いか、竹取物語は無いかと言って書生さんが来るが、当時の活字本を切らして居て無心(うっかり)昔の木版本を見せ様ものなら忽ちこんなものが読めるかと剣突を食う、和書を読んだことが無い眼ぢゃ無理もない」
『雑誌と読者の近代』(6p)
つまり維新から30年、「活版印刷本」の一般化に伴って当時の若者はすでに、現在の私たち同様、江戸期の「木版本」が読めなくなっていたのだ。
江戸期(幕末)の文体について、前田愛は、為永春水を例にして次のように指摘する。
春水の人情本のスタイルが音読を前提にしていたことは、句読点の切り方に端的にあらわれている。例えば『春色梅児誉美』第一齣で、米八が丹次郎の隠宅を訪ねるくだり、「わちきやア最(もう)。知れめへかと思つて胸がどきどきして。そしてもふ急いで歩行(あるひ)たもんだからアア苦しいトむねをたたき……」の二つの「。」は米八が息を切らしてものをいう様子を模写するための区切りであって意味上の区切りではない。 『近代読者の成立』(176p)一部表記を変更
つまり江戸後期の「木版本」では、「音読」を前提にした「文体」が使われてきた。
ところが、明治30年代に青年時代を迎えた維新以降のジェネレーションは、「活版印刷本」で育ってきたため、「音読」を前提としたかつての文体と断絶があった。
かつての文体で書かれた「木版本」が、読めないのだ。
永嶺は、「活版印刷」がもたらした最も重要な変化は、「読みやすさ」の改善だったと指摘する。
あわせて「句読点」の規則・段落・改行が、明治20年代に普及する。
それは「音読」を前提とせず、「活版印刷本」の視覚的読みやすさを大きく改善した。
「声に出さなく」ても、視覚的に読めるようになったわけだ。
活版印刷は、その「印刷されたページの視覚的装置」(シャルチエ)の導入によって、人々の読書視覚に大きな変化をもたらした 『雑誌と読者の近代』(6p)
「作者」もまた「音読」を前提としない「文体」を生み出していく。
前田は、それを二葉亭四迷に見出しているようだ。
いずれにせよ島崎藤村について指摘したように、「作者」は「活版印刷本」の視覚的効果を意識しつつ、「書物」を書き始める。
「音読」という読書伝統とはなれて、私たちの「読書」空間が開かれる。