フィリップ・オーギュストの城壁

フランソワ・ミロン通り



早めの夏季休暇を取って、パリに行っていた。
ちょうど、ワールドカップの対ブラジル戦・ポルトガル戦と続く期間で、勝つに連れパリの町の熱気が上がっていくのがわかった。
(この期間、フランスは熱波に襲われ、パリで連日33℃を越える異常な暑さでもあった。)


対ブラジル戦で、ジダンからのフリーキックをアンリがゴールした瞬間、パリの町は大歓声に包まれた。
実際、サンジェルマン・デ・プレの通りから、パリの大地そのものが響めいたかのようなうなりに似たものが聞こえた。


決勝までの期間、フランスは幸福である。


さてパリで何をしていたかというと、中世の城壁の痕跡を探して歩き回るという、浮世離れしたことをしていた。
宮下志朗の「パリ歴史探偵術」を読んで以来、この城壁を経めぐることをいつか果たそうと思っていた。


フィリップ・オーギュストは、12〜13世紀にかけての王で、宮下によれば「フランス封建王政の地固め」をした君主である。
この王の時代、パリの範囲はシテ島を中心に、わずかに直径1800メートルに過ぎない。
この範囲を、全長5400メートルの城壁が囲んでいた。


むろん、今は城壁はない。
わずかに、かすかな痕跡があるだけである。
その痕跡を繋ぎながら、熱波の下、歩き回った。
といっても、すでに述べただけの距離である。
(フィリップ・オーギュストついては、以下のサイトが詳しい。)
http://www.philippe-auguste.com/index.html


左岸で言うと、ポン・デ・ザールのたもとの学士院からオデオン交差点を抜け、ムッシュ・ル・プランス通りを歩んで、斜めにサンミッシェル大通りに出、パンテオン脇からコントレスカルプ広場に抜ける。
http://www.philippe-auguste.com/mur/plans_photos/plan_actuel-rive-gauche.html

右岸で言えば、シュリー橋のあたりから、サンス館、市庁舎の裏から国立古文書館のあたりに抜ける。
http://www.philippe-auguste.com/mur/plans_photos/plan_actuel-rive-droite.html


要は、観光客の雲集する地域の外延をたどっただけのことである。


しかし、リセ・シャルルマーニュの校庭に堂々と城壁が立っていたり、古文書館の前のクレディ・ミュニシパル銀行の中庭に忽然と中世の塔が現れたりと、それなりに心躍るものがあった。
http://www.philippe-auguste.com/mur/plans_photos/rive_droite/RDStPaul_1.html
http://www.philippe-auguste.com/mur/plans_photos/rive_droite/RDruedesFrancsBourgeois_2.html


中世の城壁を、最もよく見ることができるのはルーブルのシュリー翼の半地階である。
ルーブル自体、フィリップ・オーギュストが築かせた砦が、そもそものはじまりなのである。
http://www.louvre.or.jp/louvre/japonais/palais/pal_d.htm


実に22年ぶりにルーブル美術館に入った。
前に入ったのは、ピラミッドができる以前である。


中世の砦の威容に感じ入り、そそくさと人ごみのルーブルを後にした。


この散策の途中、宮下が前掲書でぜひ通るようにと書いていた、右岸フランソワ・ミロン通りを抜けた。
この11番地と13番地に、中世の家が建っている。
(画像参照)


繁華な現代の町に、卒然と中世が露出しているようで、言葉を飲むほどの思いがした。


パリ歴史探偵術 (講談社現代新書)