一方通行路(2)

 時代は、ルネサンスとちょうど対のような関係にあるが、とりわけ、書籍印刷術が発明されたときの状況と対立している。つまり、偶然であったか否かはともかく、ドイツに印刷術が出現したのは、言葉のすぐれた意味における本が、本の中の本[聖書]が、ルターの聖書翻訳によって民衆の財産となった、まさにその時代のことだった。いまや、こうした従来の形態での本が、終焉に向かいつつあることは、あらゆる証拠から見て明らかである。
                 (ベンヤミン・コレクション3 051〜052p)


改めて言うまでもなく、グーテンベルクが印刷したと考えられているのは、「四二行聖書」である。
一方、クリストフ・プランタンが、「本の中の本」として、その出版に力をそそいだのは、「多国語対照聖書」の印刷であった。

原克は、「書物の図像学」の中で、

ドイツにおける印刷術の普及が、ルター訳聖書の流布と不可分であったことは周知のことである。ハードウェアとソフトウェアの革新が、まさにクロスオーバーし未聞の幸運を得たのであった。
                 (書物の図像学 31p)


いささか、原の表現は大ざっぱすぎるようにも思えるが、ベンヤミンが上記の文章で「ルネッサンス」と書いたとき、原と似たような視点にたっていただろうことは、推察できる。
「書物」は、「本の中の本」を頂点として、神の「真理」に裏打ちされていた。
その時点で、「書物」は、「真理」の<喩>であった。


しかし、活版印刷によって、大量に複製された「真理」は、テキスト・クリティックを経なくてはならない。
「聖書」の中のおびただしい矛盾、誤訳、欠陥。
修道院の書写室で、少数の人の目にしか触れなければ露呈しなかった「本の中の本」の問題が、活版印刷というハードウェア革新によってあきらかになる。
プランタンが、「多国語対照聖書」を印刷しようと希求したのも、「本の中の本」の欠陥なき「真理」を発見するためだったとも言えよう。


その結果、「本の中の本」は、失墜する。
原は、スピノザの『神学・政治論』を次のようにまとめる。

聖書は、「躊躇と矛盾と誤謬に満ちた人間の作物」だと断じられる。したがって、その成立事情は歴史的現象であり相対的なものであってなんら絶対的なものではない。こうしてスピノザの批判は、数百年にわたって教会の権威によってうちかためられてきた、書物の書物=聖書の一枚岩のような統一性を、さまざまに伝承されてきた異本の複数性へと解体してしまった。絶対的統一性が、相対的複数性へと崩落してしまったのである。そしてまさに聖書の無時間的単一性のこの崩壊という点で、スピノザの聖書批判は、たとえば印刷術の普及により書物があらたな機動性を獲得していったことによって生じた社会史的地殻変動の文脈において了解されるべきである
                 (書物の図像学 33p)


「本の中の本」は、「真理」の<喩>から転落する。
しかし、この時点ではまだ、ベンヤミンの言う「従来の形態での本が、終焉」を迎えたわけではない。

ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅 (ちくま学芸文庫)

ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅 (ちくま学芸文庫)


書物の図像学―炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壷

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