一方通行路(3)


「本の中の本=聖書」が、「真理」の<喩>から転落した時点で、ヨーロッパ近世が発見したのは、「科学」であった。
あるいは、自然と言いかえてもいい。

それは、「神は数学の言葉で自然の書物を書いた」。というガリレイの主張に結晶している。
                 (書物の図像学 29p)


「自然」という「書物」を読み解くことが、「神の真理」に到達する道となった。
それは、「聖書=本の中の本」という単数性が、自然を解明するための、学問的「書物」の複数性へと移行し、分裂したことを示している。


分裂した真理は、その個々を捉えても「神の真理」には、到達しない。
それは、関連付けられ、体系化されなくてはならない。


ダランベールは、「百科全書序論」の中で、次のように言う。

われわれは(中略)あの一群の博物学者たちの真似をしようとは思わない。彼らは、たえず自然の産物を類と種に区分することに忙しく、こうした産物自体の研究にあてたならばはるかに有益に使えた時間を、あたらこの作業に費やしてしまった。
                 (中公バックス世界の名著35 457p)


百科全書派は、世界の体系化を目指す。

 われわれの知識のさまざまな部門およびそれを区別する特徴について詳細をつくした後では、われわれにとってなすべきこととしてはもはや、それらの知識を同じ一つの観点のもとにまとめ、その起源と相互の連関を示す役立つ系統図あるいは百科全書的図表を作る作業が残っているだけである。
                 (中公バックス世界の名著35 453p)


分裂してしまった「真理」の<喩>としての、夥しい本。
(この場合、「真理」は、自然科学のみを指すのではない。
ダランベールは、芸術や技芸も、百科全書に加えている。)
これを体系化し、あるいは読み解けば、(現実に可能かどうかは置くとして)、理念としては「絶対的<百科事典>」が完成し、「真理=本の中の本」へ到達する。
それは「絶対的<図書館>」と言ってもいいかも知れない。
「真理=本の中の本」は、「絶対的<図書館>」という<喩>になった。


この体系の中に位置することによって、個々の「書物」は、特権的地位を占めることができた。

いまや、こうした従来の形態での本が終焉に向かいつつある 
                    (ベンヤミン・コレクション3 052p)


20世紀初頭のベンヤミンに到達するのは、次のステップである。


書物の図像学―炎上する図書館・亀裂のはしる書き物机・空っぽのインク壷

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ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅 (ちくま学芸文庫)

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