一方通行路(4)


フロベールに「ブーヴァールとペキュシェ」という、不思議な小説(未完)がある。
ブーヴァールとペキュシェは、貧しいパリの筆耕生である。
ブーヴァールが遺産を得たことで、田舎に土地を買い共同生活を始める。
このふたりの生活は、あらゆる「書物」を読み、討論し、実践することである。

農業から養樹学、園芸、醸造法、蒸留法へ、さらに化学、解剖学、生理学、医学から地質学、考古学、歴史小説、文学、劇作術へ、そして社会主義降神術、催眠術、魔法、磁気療法から、哲学、宗教、宗教批判、教育法、算術、地理学、宇宙形状学、デッサン、博物学、道徳、音楽へといたる。
                 (書物の図像学 63p)


これは、百科全書派が目指した、世界の体系化ではないか。

およそ現実の時間計算ではつじつまがあわないほどの年数にわたる実験と失敗のくりかえしの果てに、彼らはすべてをうしない、ようやく諦める。結局は未完に終わったこの小説ののこされた草案には、次のようにある。


密かに銘々、あるよい考えをあたためる。双方、なかなか口にしようとしない。それを思い浮かべるたびに、ふたりは微笑む。 とうとうふたりは同時にその考えを口にする。「以前のように写本しよう」。
                 (書物の図像学 63p)


分裂してしまった「真理」の<喩>としての、夥しい本。
ダランベールの意図に反して、この夥しさを、私たちは体系化できない。
「書物」は、体系の向こうに常にすり抜けていく。
つまり、「真理」の体系の中に位置することによって、特権的地位を占めることができるはずだった個々の「書物」は、その位置を占めることができない。
とりわけ、20世紀初頭に始まった「大量複製社会」=さらに夥しい(過剰な)印刷物の氾濫のなかで

いまや、こうした従来の形態での本が終焉に向かいつつある 
                  (ベンヤミン・コレクション3 052p)


20世紀初頭のベンヤミンに到達したのは、このステップである。

再構成された「ブーヴァールとペキュシェ」の草案によると、ふたりは「農学、医学、神学、古典、ロマン派などすべての文体を試す」そして「ありとあらゆるものを筆写する」のである。つまり、「タバコの袋、古新聞、広告、やぶけた本」「流行遅れの文学、教会のラテン語、綴字のでたらめなエロ本、おじいさんの時代小説、妖精物語、子供むき豆本、昔のオペラ、ばかばかしい歌のルフラン」などなど、それが書かれてあり、印刷されてありさえすれば、書物であれ、書物以外の印刷物―――カタログ、ちらし、タブロイド新聞、パンフレット、包装紙―――であれ、なんらえらぶところがない。
                  (書物の図像学 65〜66p)


「書物」が「真理」の<喩>の体系に場所を占められないのなら、書物以外の印刷物に対して「書物」が持っていると考えられてきた特権的地位は失墜する。

真の文学活動は、文学の枠内におのが場を求めるわけにはいかない。―――文学の枠内にとどまっていることは、むしろ文学活動の不毛さの現れとして、ごく普通に見られるものだ。(中略)この働きが、現在活動しているさまざまな共同体に影響を与えるためには、書物というものがもつ、要求水準の高そうな、普遍志向のポーズよりも、一見安っぽい形式の方が適当であって、そうした形式をビラ、パンフレット、雑誌記事やポスターのかたちで、作り上げてゆくことが必要となる。この機敏な言語だけが、現在の瞬間に働きかける能力を示す。           (ベンヤミン・コレクション3 019p)


ベンヤミンが、そう書いてから100年。
web上に発信されるさらに膨大な言語空間の中で、「従来の形態での本が終焉に向かいつつある」。


ブヴァールとペキュシェ (上) (岩波文庫)

ブヴァールとペキュシェ (上) (岩波文庫)