整版本


田中優子の「江戸はネットワーク」を読んでいた。
広範に江戸、とりわけ天明期の戯作者・画家・俳人(知識人という<近代的呼称>はそぐわない気がする)などを取り上げた本だが、その中に黄表紙に触れた箇所がある。


絵と文字が同じフレームの中に別々に描かれ、しかも両者が独立しながら入れ込み合い、文字が絵の中に入らんばかりにぎっしりと迫り、文字が絵を可笑しくし、絵が文字を笑わせ、という関係を作りだしたのは、この時代、日本だけではなかったのか。
                 (江戸はネットワーク 169p)


黄表紙に惹かれて、社会思想社の現代教養文庫『江戸の戯作(パロディー)絵本』シリーズをむさぼるように読んでいた時期がある。
ちょうどファッション系の女性誌男性誌の編集をしていた頃で、切り抜きの「物(ブツ)撮り写真と、キャプションが複雑に(渾然一体となって)いる誌面を作りながら、これは「黄表紙」ではないかと思っていた。
内容についていえば、たとえば若い男の向けの雑誌では、基本的には「いかに異性にもてる」かが、読み物記事に関しても、ファッション記事に関しても基底部にあって、それは「洒落本」だな、とも思っていた。
黄表紙は、挿画のある<書物>とも、吹き出しの文字がある「漫画」とも画然と異なっている。


黄表紙のようなもの、あるいはその類似としての狂歌本のようなヴィジュアル+文字本の流行は、ひとつにはメディアが整版本であること、またひとつには民間のマッスなマーケットが成立していることが条件となる。
                  (江戸はネットワーク 169p)


日本の印刷の歴史は、特異かも知れない。
日本に活版印刷の技術が伝来するのは16世紀末。
ヨーロッパと朝鮮半島からだった。
ローマに派遣された「天正少年使節」が持ち帰った技術によって、九州各地で活版印刷が始まる。
また、秀吉の朝鮮侵略に伴って、朝鮮半島から持ち帰られた活版技術(銅活字自体も持ち帰った)は、後陽成天皇・家康などによって、古活字本の出版を生んでいる。


詳しくは以下のURL参照
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/jyousetu/nihon/kappan.html
http://www.printing-museum.org/collection/looking/04_01.html


ところが、江戸期、この技術をわが国は捨ててしまうのだ。


活字印刷の成立に伴って出版業者が成立し、あたかもヨーロッパと同じように、写本時代のあとには活字印刷時代が来るかのように思われたのだった。しかしヨーロッパとは逆に、本の大衆化、出版のさらなる隆盛が、活字文化時代にわずか二十数年で終止符を打った。キリシタン版は一点一五〇〇部印刷できたというが、恐らくそれが活字印刷の限度だったろう。より多くの部数を印刷するには、活字を整える技術が追い付かなかったのである。朝鮮や中国のように宮廷内で行われる印刷には足りるだろうが、庶民が出版を担ってマスメディアを形成しはじめた日本ではもはや使いものにならなかったのである。
                  (江戸はネットワーク 169〜170p)


初期の活字印刷は、ヨーロッパにおいても巨大な資本を必要とした。
グーテンベルクの実在が、借金をめぐる裁判記録で証明されているのは、その典型的エピソードといえる。
とりわけ、アルファベットと比べ、膨大な(無限といっても過言でない)文字数の必要な漢字文化圏、日本では、国家が本腰を入れるか、巨大ブルジョワが資本を傾けないかぎり、活字印刷の隆盛はありえないことであった。
江戸中期以降の出版をリードしたのは、中小の地本問屋であり、小ブルジョワといってもよい資本規模である。


大衆が享受する江戸期の作品は、整版本に戻ってしまう。
整版本に関しては以下のURL参照
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/jyousetu/nihon/kinsei.html
http://www.nijl.ac.jp/~koen/washyonosamazama/washyo2.htm


 整版本とは、一枚の木の板に文字や絵を刻んで整版を作り、それを印刷して作る本である。活字を使うのとは違って、文字形の規範を定める必要はなく、活字にない文字の心配をする必要はない。
                  (江戸はネットワーク 169p)


字組みも、レイアウトも自在なのである。
印刷の自在さが、黄表紙の内容の自在さを保証している。


しかし、黄表紙は、恋川春町の「金々先生栄花夢」(一七七五年・安永四年)にはじまり、わずか三〇年で姿を消す。
京伝さえも、一八〇九年以降、「合巻」と「読本」しか書かなくなる。
時代のトレンドが、急速に変わり、より複雑な内容の「合巻」に移行したと、田中は指摘する。
マーケットが、変わったのだとも。


この身代わりの早さ、軽さ。
それ自体が、いかにも「黄表紙」風であり、明和年間・田沼時代を中心に、急速に花開いた江戸の中・後期の文化にふさわしい。


江戸はネットワーク

江戸はネットワーク


江戸の戯作絵本 第1巻 初期黄表紙集 (現代教養文庫 1037)

江戸の戯作絵本 第1巻 初期黄表紙集 (現代教養文庫 1037)