形態/内容の二分法(1)


前回、電子書籍に関して、いささか舌足らずなことことを書いた。
直後に読み始めた長谷川一の「出版と知のメディア論」に、問題の本質がより正確に論じられているのを知った。
まず長谷川は、「コミュニケーションは『伝達』か」、という問いから始める。
一般に考えられているのは、次のような過程だ。

 まず送り手がいる。かれはなんらかの意図や内容をメッセージとして発信する。メッセージは種々のメディアによって運ばれ、受け手に届けられる。受け手はメッセージを読み、その意図や内容を把握する。このとき、送り手と受け手の関係は比較的固定されたものであることが措定され、かつ、その間を伝達されるメッセージは原則として意図や内容を忠実に形式化したものであることが暗黙のうちに了解されることになる。均質で透明なコミュニケーション空間内において、固定された二点間をある径路が結んでおり、そこを伝ってメッセージが流れていくという、郵便的ないしは宅配便的イメージである。
                 (「出版と知のメディア論」 26〜27p)


こうしたコミュニケーション観は一般に広まっており、出版に関しても例外でない、と長谷川は指摘する。

 たとえば寿岳文章は、書物を定義することが困難であるとしながらも、「知識や感情を伝達するために人間が工夫した物質的なしかけの一つ」と定義している。箕輪成男の認識は、もっと明快である。学術出版を例にとりあげ、それを「学術情報の生産、形成(パッキング)、流通、消費という伝達システムとして捉え」られるべきだと述べている。
                 (「出版と知のメディア論」 28p)


長谷川は、この一般に広まっている考え方に疑問を呈す。

 なぜなら、この観点が限界を内包していることは明白だからだ。コミュニケーションを情報伝達過程と見なす立場にたつと、いくつかの傾向が不可避に生じる。まず、送り手と受け手の関係を相対的に固定的なものとして捉える視点が前提される。つぎに、コミュニケーションを媒介するメディアは、メッセージを伝達する中立的技術あるいはシステムとして、ほぼ「技術」に近いイメージで把握される。ある時点におけるメディアのあり方は、絶えまなく「進化」する技術の一段階と見なされるようになる。そのことは、より新しいメディアはより新しいコミュニケーションや社会をもたらすという技術決定論的な発想へとつながっていく。「技術決定論は、「テクノロジーが社会変化を決定づける」「テクノロジーは社会に大きな影響を与えるが、それ自体は社会から離れている」という、二つの疑わしい命題から成っている。では、人々は、資本は、政治は、階級は、利益は、どこにあるのか?」

                 (「出版と知のメディア論」 29p)


この引用の後半部分は、ウェブスターの『「情報社会」を読む』からの引用になっていて、その部分は、上記の本を読んでいない私としては判断を保留したい。
が、少なくとも長谷川が指摘する疑問は理解できるし、多くの問題の萌芽が含まれていると思う。
まず、長谷川が指摘する通り、一般に広まっている「コミュニケーション」観を前提にすれば、形態=メディアと内容=コンテンツは、二分されてしまう。
すでにこのブログで述べてきたように「書物」は、「書=内容=コンテンツ」と「物=形態=メディア」が不可分なものである。
これが、二分できると仮定するから、「書物」というメディアに則して表現されたものを「電子書籍」に簡単に移し替えられると誤謬するのだ。
いいかえれば、形態/内容の二分法に立てば、メディア(この場合は「書物」)が、電子的だろうが何だろうが、内容=コンテンツは本質的に変化しない、というところにたどり着いてしまう。


「書物」を、コンピュータ上や、PDAやケータイに移し替えればそれでいい。
伝達すべき内容は本質的に変化せず、その伝達手段としての形態が変わるだけだ。


この認識が、この十年の間、「電子書籍」が繰り返してきた失敗の本質であると思う。


メディアが変化すれば、内容も不可避的に変化してしまう。
しかも、読書は「内容=コンテンツ」の伝達ではない。



 一編のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され、これらのエクリチュールは、互いに対話をおこない、他をパロディー化し、異議をとなえあう。しかし、この多元性が修練する場がある。その場とは、これまで述べてきたように、作者ではなく、読者である。読者とは、あるエクリチュールを構成するあらゆる引用が、一つも失われることなく記入される空間にほかならない。あるテクストの統一性は、テクストの起源ではなく、テクストの宛先にある。

                 (ロラン・バルト「物語の構造分析」 88〜89p)


そもそも「送り手と受け手の関係を相対的に固定的なものとして捉える視点」自体が疑わしいと、バルトを介して、考えていかなくてはならない。

出版と知のメディア論―エディターシップの歴史と再生

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物語の構造分析

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