メビウスの輪


いましばらく、長谷川一の「出版と知のメディア論」に則して考えたい。
一般に、書物に関して「形態/内容・メディアとコンテンツ」を二分して考える思考法を多くの人が常識化しているという長谷川は指摘した。
長谷川は、歌田明弘の「本の未来はどうなるか」(中公新書)から次のような言葉を引用する。

 しかし、本は、言葉をはじめとする人間の表現―――ドキュメント―――の伝達手段として人類が生み出してきた思考の入れ物にすぎない。[……]ここ何千年か、本は、特別に権威を持った表現の蓄積と伝達の手段と見なされてきたが、その生命はかならずしも永遠のものではない。石盤がその地位を奪われたのと同様、[表現の伝達手段として=引用者注]よりよいメディアがあれば、それに変わっていくことだろう。
                (「出版と知のメディア論」 38〜39pから孫引き)


この歌田の言葉は、内容(コンテンツ)の形態(メディア)に対する優位性の主張である。
つまり、形態と内容を二分したうえで、内容は形態に先行して存在していることを前提にしている。
長谷川の指摘によれば、この考えは、以下のような「発展史観」を内包している。

 形態の役割とは、煎じ詰めれば、内容をより広範に、より効率よく、より効果的に伝達あるいは伝播するための手段を提供しているにすぎない。したがって、それは本質的に技術的な範疇に限定された問題にすぎず、それゆえ、技術の進展によって新たに登場するであろう、より効率的かつより効果的なメディアによって、つねに置き換えられる運命にあるものと、あらかじめ決定づけられる。この考え方に通底するのは、技術は「進化」=進歩するという発展史観である。
                 (「出版と知のメディア論」 38p)


すでに見てきたように、「書物」の内容と形態は、不可分なものである。
近代の「書物」の形態に合わせて、たとえば島崎藤村をはじめ明治以降の小説家は、近代小説を書いた。
そこには、江戸期の木版印刷を前提とした文学と、明白な断絶がある。
そして、現在でも多くの著者が、意識的にせよ無意識的にせよ、冊子・(活版)印刷の形態に合わせて、作品を書いていると確信している。


長谷川は、マクルーハンの「メディアはメッセージである」というテーゼに立ち戻る。
と同時に、このテーゼの危うさも指摘している。

マクルーハンのいうような、メディアがその形態レベルにおいて本性として社会に作用するのだという言明もまた、ともすると、内容などまるで問題ではなく形態こそが重要であり、新しい形態=技術によって新しい社会が到来するのだとする了解へと誘導してしまいかねないし、実際誘導する。これではたんに内容優位の一般的な形態/内容二分法論を転倒しただけにすぎず、これもまたけっきょくのところ、発展史観に裏打ちされる技術決定論に回収されることになるだろう。

                 (「出版と知のメディア論」 41p)


形態の優位・内容の優位を否定したとき、私たちはどんな地平から「書物」を見るのだろう。
長谷川は、次のようにいう。

二分法的に扱われる形態と内容は、じつはメビウスの輪のように表と裏が意味をなさない関係なのである。つまり、「メディアはメッセージ」であるというテーゼは、「メッセージはメディア」であるとする俗流メディア観の文脈のなかで理解されてこそ効力を発揮するのだ。

                 (「出版と知のメディア論」 45p)


長谷川の結論の当否は、私には、いま理解できない。
ただ、メビウスの輪を、丹念にたどることしかない。