明治初期の増刷から


今田洋三の「江戸の本屋さん」に、福沢諭吉の『学問のすヽめ』(署名表記は引用本に準拠)の印刷事情が述べられている。

明治四年十二月『学問のすヽめ』初版の跋文に「慶応義塾の活字版を以てこれを摺り」世に広めようとするものであるとあるのは、福沢の活字メディア開拓の意欲のあらわれであった。福沢の『学問のすヽめ』は、かれの期待をはるかにこえて大変な売れ行きであった。その初編は明治五年二月に、清朝体の活字『学問のすヽめ 全』として刊行された。
                (「江戸の本屋さん」 p198)


欧米の事情を見聞し、「活字」メディアの重要性を認識した福沢の意欲は、いま問題とするところではない。
その後の、増刷の事情に興味が引かれたのだ。
「大変な売れ行き」となった『学問のすヽめ』は、今田によれば、明治四年六月に「木版」によって再刻。
明治六年四月には、三刻が「木版」で出た。
同じ年十一月二編が「木版」で、十二月には三編が「木版」で刊行される。
六編・七編は明治七年、「活版」で印刷されたが追って「木版」本も刊行される。


つまり福沢は、活字本で出したいのだが、売れ行きがよく木版本でその需要に応えざるをえなかったのである。
                (「江戸の本屋さん」 p198)


今田が、この本で引用している福沢自身の文によれば、『学問のすヽめ』初編はトータルで二十万部刷ったとある。
同じく、明治はじめのベストセラー『西国立志編』は、「木版」で刊行されている。
こちらの刷り部数は、SuperNipponica(小学館)によれば、総計100万部を下らないという。


「江戸の出版」所收、座談会「板元・法制・技術・流通・享受」の高木元の発言によれば、明治十五年を境に活字本に移行するとのことだが、幕末・維新からわずかしか立っていない時期には、部数を大量に刷る、あるいは増刷するには、活版より整版が適していたことが福沢の例で分かる。


産業としての(というより商売としての)出版業は、初刷で大きく儲けるわけではない。
版を作るのに資本を投下し、初版が人気を呼べば、その版を利用した二刷・三刷の増刷で、大きな利益を得るのである。
この間の事情は、現代も全く変わらない。


ひるがえって、江戸初期の古活字本の時代、増刷は至難の業だった。


(古活字の場合)
増刷をするときに、活字印刷の場合ですと、版組を解いていますので、また新しく組み合わせなくてはいけない。本の需要がどんどん増している時代になっているので、これでは不便で、結局のところ整版にとって代られるようになります。
  (「江戸の出版 座談会『「板本」をめぐる諸問題』 14p 市古夏生発言 )


20万部・100万部という明治初期の部数とは較べるべくもないだろうが、江戸初期(元和偃武以降)に「書物」を受用する多くの「読者」が、わが国には誕生しようとしていた。
また、「本」によって利益を得ようという「産業」としての出版も、誕生しようとしていた。
そのふたつを成り立たせるためには、増刷のきく、つまり版組をこわさない「整版」という印刷方法の方が適していたのだ。
そして、それに適さなかった「古活字」印刷は、放棄された。