フーコー・シャルチエ


ミッシェル・フーコーの“Qu'est-ce qu'un auteur?”(作者とは何か)と題された論は、難解だが、刺激的だ。


テクストに対する所有制度が制定され、著作権や、作者と刊行者との関係や、復刻・転載権などについて厳密な規則が規定されたとき――つまり十八世紀末および十九世紀初頭のことですが――まさにそのときからなのです、書くという行為に属していた侵犯の可能性が文学に固有の至上命令といった風貌をますます帯びるようになったのは。
   (「フーコー・コレクション2」391p)


《文学的な》言説は機能としての作者を付与されたかたちでしか、もはや受け入れられない。詩やフィクションのいかなるテクストに対しても、人びとは、それが何処からきたか、だれが書いたのか、いかなる日付に、いかなる状況で、あるいはどのような企てに発して書かれたのかと問いかけるでしょう。(中略)文学上の匿名性はわれわれには耐えられないのです。われわれはそれを謎というかたちでしか容認しないのです。機能としての作者は今日文学作品に全的に作用しています。
   (「フーコー・コレクション2」393p)


この論の指摘に促されて、ロジェ・シャルチエは、「書物の秩序」のなかで、著作権や検閲(処罰されることもありえたというかぎりでの作者:フーコー)以前に、歴史的に作者が成立する過程を、論じている。
ときには、フーコーを論駁するかのように見える。


私の理解するかぎりでは、フーコーは「私が分析したのはまさに、この作者としての機能が、十七世紀以降の西欧文化と呼ぶべきもののなかでどのように働いたかということです。(op.sit 442p)と述べている以上、話はかみ合っていない。
ただ、シャルチェが、写本時代からの「作者」のあり方を見事に証明しているのは間違いなく、フーコーの論をヒントにして書かれた、別の話を読まされているにすぎない。


ただ、シャルチエが、考察の過程で指摘する、十七世紀末の「作者(auteur)」とは、「作品の印刷物としての流布」(書物の秩序 p77)を前提とした『書く人(ecrivain:eアクセンテギュー)』という説明は、注目に値する。


「作者」と「書く人」の一線を画したのが、「印刷」であった。
フーコーの論文のタイトルも“Qu'est-ce qu'un auteur?”である。





書物の秩序 (ちくま学芸文庫)

書物の秩序 (ちくま学芸文庫)