「グーテンベルクへの挽歌」


性格なのか、読みかけた本を途中で放り出すことができない。
実際、読みかけの本は部屋のあちこちに散らばっているし、現実には不可能かもしれないが、いつかは読むつもりである。
しかし、この「グーテンベルクへの挽歌」という本は、読み切るのは無理かもしれない、と思った。


1995年に、青土社から翻訳が刊行された本で、すでに出版から10年以上の時を経ている。第一部は、著者スヴァン・バーカーツが、いかにして文芸評論家になったかという自伝的エッセイで、アメリカの文芸界に関心のない私には、退屈だった。
第二部は「エレクトロニクスの黄金時代」というタイトルで、この本の中心らしいのだが、電子機器やテレビに囲まれて育つと「文学」的感性が育たず、文学が理解できなくなるという論旨で、これもまた退屈だった。
取り上げられているテクノロジーは、今では陳腐化しているが、そのことが論旨の退屈さの原因ではない。


私は、生活環境を起因とする「感性」論は、多くのことを一般化してしまう危険があると考えている。
この本の中で何度も取り上げられるヴァージニア・ウルフは、テクノロジーが急速に発達する前にも、読まない人も理解しない人も現在と同様いたに違いない。
そのことは、自明だと思える。
人間を一般化して見ないこと、人間の多様性を見続けることが文学の基本だと、遠い昔ではあるが大学で習ったように思うし、今に至るまで、私はそのように考えている。


しかし、この本を読み切れないと思ったのは、そうした論旨のせいではない。
自分にとって退屈な本は、山ほどある。


最大の原因は、編集者が介在したのだろうかと疑うような、翻訳の文章のひどさと、誤植の多さである。


ちなみに任意に開いた87pから88pには、「反対制文化」とか、「上の上役」(上役の席が上の階にあるという意味ではなさそうなのだが)、「旅行の行き先の場所」(私には奇妙な日本語に思えるが)、といった感じで、数ページを読むのに躓きつづけてしまうのだ。


テクノロジーに危惧を表明し、活字文化の優位を主張することを目指す本の論旨と考え合わせると、悪い冗談を読まされているような気がする。


一方、最近話題の「ケータイ小説」について、携帯にアップされた小説は、ほとんど手を入れられずに刊行されるというインタビュー記事*1を読んだ。
アップされると、それを読む膨大な人たちからアドバイスがあって、それを参照しながら書き継がれるらしい。
オープン・ソースといってもいいかもしれない。
出版社(編集者)は、表記の問題点を直すだけのようだ。


そこには、文芸編集者と作者の緊迫した関係性はない。


編集という仕事も、大きな曲がり角にあるのを、一介の出版社の社員として感じている。
程度の悪い出版物を読むと、いっそオープン・ソースの方がいいのかもしれないなどと、ひねくれてみたくもなる。


グーテンベルクへの挽歌―エレクトロニクス時代における読書の運命

グーテンベルクへの挽歌―エレクトロニクス時代における読書の運命