読書のもたらしたもの


カルロ・ギンズブルグの「チーズとうじ虫」は、書物史の文献リストに、必ずといっていいほど記載されている。
私自身は、ギンズブルグのよい読者ではなく、「夜の合戦」も「闇の歴史―サバトの解読」も部屋に積まれているだけである。


すでに、このブログでは香内三郎の『「読者」の誕生』を手引きとしながら、印刷され、流布する「聖書」に自由な解釈を加えることで、「読者」が成立する過程を考えた。
ギンズブルグの「チーズとうじ虫」は、この過程を、ドメニコ・スカンデッラ(通称メノッキオ)という、16世紀イタリアの粉挽屋を通して解明している。


メノッキオは、


私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りになっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ。
                   (「チーズとうじ虫」 41p )


という類いの話を日常的にもらし、二度異端審問にかけられ、処刑される。
ギンズブルグは、古文書の中から見出した裁判記録を追い、メノッキオの思考を明らかにしていく。


その思考は、二つの要素から成り立っていたというのが、ギンズブルグがこの本で明らかにしようとしていることだ。
最初の要素は、読書。
メノッキオの読んでいた書物の完全なリストは失われてしまっているが、ギンズブルグがあげているのは、俗語訳の『聖書』『聖書の略述記』『聖母の練磨』『諸聖人伝』『ジュディチオの物語』『マンドヴィルのツェンネの騎士』『ザンポロ』という題の書物、『年代記補遺』『ペサロの都市の有名な博士マリノ・カミロ・デ・レオナルディがイタリア式の計算にもとづき編んだ暦』、無削除版の『デカメロン』おそらくは『コーラン』。


メノッキオは、これらの本のあるものを「ヴェネツィアで二スウで買いました」(83p)と言っているが、その大半を借りている。
これらの読書から、引き出された思考が、先の「チーズとうじ虫」の汎神論的な思考なのである。


ギンズブルグは、そのイメージや思考を、メノッキオはイタリア・フリウリ地方の口頭伝承文化に淵源を求める。
メノッキオの思考の二つ目の要素である。


この全く異なる文化が白日のもとにひき出されるためには、宗教改革と印刷術の普及とが必要であった。宗教改革のおかげで、たんなる粉挽屋が自分の言葉を語ろうと考えることができ、ローマ教会や世界についてのかれ自身の意見をのべようと考えることができたのである。印刷術の普及のおかげで、かれのもとでふつふつと沸き立っていたこの世界についてのぼんやりとよく整理されていないヴィジョンを表現しようとして利用されることになる言葉をもったのである。
                   (「チーズとうじ虫」 134p )


ギンズブルグは「抑揚をうばいとられた頁の上に結晶化された言語から、口頭伝承の文化の身振りやうなり声や叫び声で区切られた言語を分離させる測り知ることもできぬほど大きな距りをこえる歴史的飛躍を、最初の人間として体験」すると書く。


いずれにしろ、印刷術によってもたらされた「読書」は、オーソドックスなキリスト教的思考を読者にもたらしたのではなく、「読書」が本来持っている想像力を飛翔させる巨大な力によって、メノッキオの場合は、前・キリスト教的思考を呼び覚ましたらしい。


私には、メノッキオのケースが、ヨーロッパ16世紀の人びとの思考の類型かどうかは、わからない。
少なくとも、オーソドックスな「西欧」の言葉で追究する異端審問官と、メノッキオの言葉は交錯しない。
しかし、メノッキオのイメージの豊潤さは、オーソドックスな「西欧」とは異なり、「中世」的な魅力に充ちている。
「私たちは生まれたときにすでに洗礼を授かっていると思う」(62p)というメノッキオの言葉に、私は、奇妙な話だが「如来蔵思想」や「天台本覚論」にも通ずる「神秘主義」の匂いさえ感じた。


「西欧」とは、なにか?
読書史や書物史よりも、そんなことを考えざるを得ない。


チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像