情報技術とメディア


アイゼンステインの「印刷革命」は、いうまでもなく、重要な著作である。
その中で、著者は、「ルネサンス」と「宗教改革」を中心に、西欧の「近代化」の意味を問い、それに決定的な影響をあたえたのは「印刷」の発明だったことをあかしていく。
まず、ルネサンスに関して、アイゼンステインは、ルネサンスとそれ以前のカロリング・ルネサンスを始めとする文芸復興との違いについて、次のような設問をする。


イタリア・ルネサンスは、新しく重要なできごととして他とは切り離して考えるに値するある独特の特徴を持っていた。しかし同様のことはカロリンガ朝の復興にも十二世紀の復興にも言えるのである。ではなぜ、十五世紀の復興だけに特別な画期的役割があったとするのであろうか。
                   (「印刷革命」 126p )


アイゼンステインは、テクストの複製・保存の技術、「印刷」が、画期をなしたことを論証する。


 印刷術が登場するまでには、当然のことながら古典の復活は規模も小さく、影響も一時的ものだった。(略)テクストが手書きで写し取られている限り、古典の遺産が存続できるか否かは地域のエリートたちの需要しだいのあぶなっかしいものだった。(略)ペトラルカが桂冠詩人に叙されて後まるまる百年というものは、イタリアにおける学問の復活は、それ以前の復活と同様制限を受けざるを得なかったのである。一方にはいくつかの限られた一時的復活があり、他方にはそれとは異なり、前例のない範囲と規模を持つ永遠のルネサンスがあったことは認めるとしても、ほんとうに新しいパターンが確立したと言えるまでにはペトラルカの後百五十年を待たねばならない。
                   (「印刷革命」 132〜134p )


ペトラルカからヴァッラに至る初期の人文主義者が文化の担い手としての生き生きとした評価をいまだに受けているのは、無味乾燥な印刷術がもたらした情報産業に負うところが大きいことを忘れてはならない。彼らの仕事が終わったあと、連続性と漸増する変化をもたらすこの新しい技術が生まれなかったなら、彼らが現在、歴史に残る学問の創始者と呼ばれることもなかっただろう。もっと昔の学者たちはその点では運が悪かった。
                   (「印刷革命」 155p )


一方、宗教改革に関しては、印刷術の重要性はあらためて言うまでもないだろう。
もしこの技術がなければ、ヴィッテンベルクの教会の扉に貼られた一枚の紙片にすぎないルターの「九十五箇条の堤題」が、短期間のうちに中部ヨーロッパ全体に伝わることなどありえなかったはずだ。
しかし、アイゼンステインは、さらに次のように指摘する。


中世のヴルガータ聖書を時代遅れなものにし、大衆市場を開拓する新たな活力をもたらしたのは、印刷術であって、プロテスタンティズムではなかった。ヴィッテンベルクやチューリッヒで起きた事件にかかわりなく、また、ルターやツウィングリ、カルヴァンがつきつけた他の問題とも無関係に、遅かれ早かれ教会は、一つには聖書写本の編纂及び三ヵ国語の学識が、書籍市場の拡大が、聖書に与えた影響を甘受せざるを得なかっただろう。ルター派の異端が広まろうと広まるまいと、聖職者の悪弊が改革されようとされまいと、印刷機によって解放された力は、もっと民主的で民族的な礼拝を目指しており、制御できなければその道に走るにまかせる以外に方法はなかったと思われる。


                   (「印刷革命」 170p )


これらの論述は、妥当だと思う。
しかし、一つ危惧を感じる。それは、テクノロジーが開発されれば、それに伴いいかなる場所でも、必然的に、文化の位相が変化するというロジックを生みだしかねないことだ。
水越伸は、近著「コミュナルなケータイ」の中で指摘する。


情報技術は、メディアを構成する基盤となる要素だが、メディアとは異なる概念としてとらえた方が有効であろう、メディアは情報技術を重要な要因としてはらみながらも、国家や資本の論理、そのメディアが導入される国や社会の歴史的、地理的文脈などの社会的要因に規定されながら生成されていくのである。そしてテクノ・メディアの類の言説は、メディアの普及を促進したり、阻害する媒介となったりする。
 もう一つのポイントは、メディアが歴史的、地理的文脈を持った具体的な社会の中に投げ込まれ、それらの文脈に沿ったかたちで、すなわちその社会に相対的に特有な編み目にしたがって発現するという考え方だ。ここでクローズアップされるのは情報技術ではなく、社会と、そこに生きる人間である。僕たちは日々の生活を生きる中でさまざまなメディアを活用しているのであって、かつてのマスコミュニケーション研究が前提にしたように、テレビの視聴者や新聞の読者など、メディアのインパクトを受ける受け手という断片的なかたちで存在しているわけではない。
 たとえば同じ世代の技術規格を用いても、同じメーカーが作った移動体技術であっても、国や地域がちがえばその社会的なありようはちがっている。
                   (「コミュナルなケータイ」 47〜48p )


アイゼンステイン自身、こうした点は理解していた思われる。


印刷機は)もし違う文化的土壌に置かれていたならば、同じ技術も違った目的に使用されていたかもしれないし(中国や朝鮮の例)、あるいは歓迎されざるものとして、全く使用されなかったかもしれない(ヨーロッパ以外の土地で、宣教師が持って行った印刷機がまっ先に据えつけられたところはたいていそうだった)。


                   (「印刷革命」 170p )


たしかにヨーロッパ近代は、この技術によって始まった。
このことは、否定のしようがない。
しかし、技術がすべてを決定するわけではない。
このことも、否定のしようがない。

印刷革命

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コミュナルなケータイ―モバイル・メディア社会を編みかえる

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