福沢屋の発端


岩波文庫版「福翁自伝」年譜には、明治二年(1869)の項に



十一月福沢屋諭吉の名で書物問屋に加入し、出版業の自営に着手
                   (「福翁自伝」 340p)


と書かれている。
実際、福沢自身が「福翁自伝」の中で


私が商売に不案内と申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾よくできたことがあります。
                    (「福翁自伝」 273p)


と述べ、出版業をはじめるいきさつを詳細に語っている。
実際、出版業は、福沢に莫大な利益をもたらした。
明治六年の書簡の中で


出版局は「只今にても一年拾弐・三万両のの商売はいたし、随分インポルタンスな」りといい、また別の書簡(六・七・二四)で「活計は読書翻訳渡世いたし、随分家産も出来、富裕の一事に至りては在官の大臣参議など羨むに足らず」
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


とまで書いている。
福沢が維新政府から一定の距離を置き、再三の御用召を断り、後に勝海舟榎本武揚など維新政府の顯官となった旧幕臣を批判できたのも、この当時、出版によって「大臣参議など羨むに足らず」と豪語できるほど富裕であった経済的背景を考慮に入れておかなくてはならないだろう。


「福沢屋諭吉」としての活動を研究した本に、長尾正憲の「福沢屋諭吉の研究」という労作がある。
幕末、幕府外国方の時期の幕臣・福沢から維新期の「福沢屋諭吉」の時期、その西欧体験を詳述した大部の本である。
私自身は、これまで福沢諭吉に関心を持っていたわけでもなく、その研究史の委細を知らないが、少なくとも福沢の事績に関し、目が洗われるように感じながら読み進んだ。
また、幕末・維新という過渡期の出版・書籍商の近代化過程に、さらにはわが国における著作権の確立に、「福沢屋諭吉」が貢献したことに、注目されてよいと思った。


福翁自伝」の叙述に沿い、また、「福沢屋諭吉の研究」に導かれながら、この間の事情を考えて行きたい。


まず、福沢は出版業をはじめるきっかけについて、次のように語る。


ソレハ幕府時代から著書翻訳を勉めて、その製本売り捌きのことをばすべて書林に任してある。ところが江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、とかく人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿ができると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、またその製本の紙を買い入るるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられるというのが年来の習慣である。ソコデ私の出版物を見るとなかなか大層なもので、これを人任せにして不利益はわかっている。書林の奴らに何ほどの智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権利を取り上げて此方のものにしてやろうと説を定めた。


                    (「福翁自伝」 273p)


「高の知れた町人」、という口吻は、福沢としてはいかがかと思うが、福沢の決意は分かる。
この時期、「西洋事情」初編を慶応二年に出版、ベストセラーとなっていた。
さらに、「雷銃操法」や、「兵士懐中便覧」(慶応四年)「洋兵明鑑」(明治二年)などの戊辰戦争・奥羽戦争にタイムリーな著作・翻訳を矢継ぎ早に行ない、売りに売っている。
福沢が、江戸末期の出版・書籍販売制度と著者・訳者の関係に関心を持つ十分な根拠がある。


では、福沢言う「年来の習慣」とは、なにか?


江戸時代の書籍商=書物問屋は販売だけではなく出版をふつう営んだので、かれらのあいだには、権利概念として、本屋仲間株(営業権)とともに版株・留板株(出版権)があった。さらに、蔵版者が別に存在していて、その委託をうけて書林が出版・販売にあたる場合には、受託出版権として支配株というものがあった。この形式で出版されるばあいを「書林支配形態」の出版というが、福沢の初期翻訳書『西洋事情』初編、『雷銃操法』巻之一などは、江戸の書林尚古堂岡田屋嘉七、誠格堂和泉屋善兵衛などの書林支配で発行された
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


ベストセラー作家、福沢は、この形態を打ち破るべく、印刷・出版を自らの手中に収めようと決意する。


その事情を知るためには、「書林支配形態」の出版を、考えなくてはならない。
                              (この項つづく)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)



福沢屋諭吉の研究

福沢屋諭吉の研究