書林支配形態


福沢は、何が不満だったのか?
江戸時代の書籍商の形態・権利が、現代の感覚では分かりにくい。
書林支配に関しては、前回、引用した。
再度、検討する。


江戸時代の書籍商=書物問屋は販売だけではなく出版をふつう営んだので、かれらのあいだには、権利概念として、本屋仲間株(営業権)とともに版株・留板株(出版権)があった。
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


つまり、出版業と書籍販売業が未分化のまま、権利として書物問屋に合ったというわけである。

さて、江戸期の出版権である。


本屋仲間が公認された最初は、京都においてである。正徳六年(一七一六=享保元年)のことであった。当時の仲間員数は約二百軒であった。京都の本屋たち、出版物が増加し、本屋商売を営むものがふえてくると、いきおい、すでに他人が出している書物と同じものを印刷して売ったり、一部だけを変えて売り出したりする者が多くなった。寛永以来の京都出版業は、中国渡来の仏書、儒書、医書や歴史書、日本の古典文学の書物など、何でも印刷にしてしまう形で発展した。論語孟子は何種類も売られたし、太平記徒然草も、資力があれば誰が出してもかまわなかった。
                      (「江戸の本屋さん」 75~76p)


江戸の初期、版権に関し、規制が全くと言っていいほどなかったことがわかる。


しかし、『史記評林』『圓機活法』を八尾と小紅屋両方で売り出して、ともに衰えてしまうというような事件がおき、新しい著作物を出版したら、すぐに海賊版を出されてしまうということが重なってくると、本屋たちは何とかしなければと考えるようになった。そこで、他店の書物と同じものを出版することを重版、少し変えただけで出版することを類版と名付け、これは禁止しようと申し合わせをした。その本についての出版の権利を認めあおうというわけである。その権利を板株(いまでいう版権)といい、ある本について板株を所有していることを蔵板といった。大坂の本屋の間でも同じ問題でなやんでいた。そして、京・大坂とも町奉行に請願した結果、元禄十一年に重板類板禁止の町触が出されたのである。
                     (「江戸の本屋さん」 76p)

「重版」ということばの使われ方が現在と異なっているが、いずれにせよ、出版社の権利を保護しようとしている。
ただし、著者の権利は、ない。


 京都の本屋たちは、元禄のころには、内々で仲間を結び、行司(仲間内の世話役、ただし取り締まりの権限を仲間内で認められている)をえらんでいた。ところが、幕府が出版取り締まりの命令を出すとき、とくに念をおして命令を守らせるために、京都本屋仲間の行司を呼んで、それを言いつけるようになった。その最初が、正徳六年(享保元年)なのである。こうなると幕府の命令にそむく者や、重板・類板をやった者は、仲間の制限を公然とうけるようになる。このことはまた板株の公認でもあった。
                     (「江戸の本屋さん」 76p)

       

享保六年、出版取り締まりのため、幕府は書物仲間の設立を命じ、ついで享保七年大岡越前守が、出版条目を出した。
幕府批判の禁止や、好色本の禁止などの他


一、何書物ニよらす此以後新板之物、作者并板元実名奥書ニ為致可申候事                
(「江戸の本屋さん」 74p)

           

とあり、現在にまで続く奥書の規定を取り決めた。
版元の権利は、これ以降、確定したわけである

さて、著者の権利であるが、実際には存在しなかったも同然、と私は考えている。
いま参照する史料が思い浮かばないが、例えば大田南畝山東京伝の場合、ベストセラーを出したときも、版元の蔦屋が吉原で一席設けるくらいで、印税が支払われるようなことはなかったという資料を読んだように記憶している。
最初に著作料を取ったのは、これもうろ覚えの記憶であるが、馬琴だったはずだ。
(いずれにせよ、上記は、地本の場合である。この点、再確認する必要がある)


さて福沢だが、初期の出版物(『西洋事情』初編、『雷銃操法』巻之一)で行われた「書林支配形態」の出版とは、委託出版・販売の形式である。
さきの「江戸の本屋さん」の定義によれば、「蔵板」は、福沢が所有しているのである。
『雷銃操法』巻之一の場合、


福沢の著者=蔵版者としての経費支出は版木代、彫刻料として合計「百五拾四両二朱」があり、入金は『雷銃操法』巻之一の総勘定として九月十七日「七両二分」が記録されている。
            (「福沢屋諭吉の研究」 219p)


正しい比較かどうかは定かでないが、現代でいってみれば、「あなたの原稿を本にします」という自費出版支援の出版社から本を出版しているようなものかもしれない。
これでは、西洋の著作権概念を知り、しかも大ベストセラーを書きつづけていた福沢としては、納得が行かなかったに違いない。
福翁自伝」の「出版物の草稿ができると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、またその製本の紙を買い入るるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられるというのが年来の習慣である。」という怒りも、「高の知れた町人」という罵詈雑言もわからなくはない。



この書林支配形態の出版は、発行分数の少ない(学術的な専門書は多くこれに属した)書目のばあいは、重版・類版の発生にたいし書物問屋仲間が保障するとともに、蔵版者の手間や経費を少なくする利点があるが、福沢の著訳書のように大量販売が可能な書目の場合は、蔵版者に不利な出版形態であった。
            (「福沢屋諭吉の研究」 356p)


そこで福沢が考えたのが、印刷部門を「福沢屋諭吉」が行ない、書林には販売・取次のみをさせるという今日の出版・書籍販売に近い形態への「大変革」であった。
                            (この項つづく)