福沢屋諭吉誕生


福沢が考えたのは、書林の機能であった「出版業と書籍販売業」のうち、出版業を分化して、福沢の手元で行なってしまうというプランだった。
そのためには、版木師や製本師などと福沢が直に交渉し、その職人を押さえてしまう必要があった。
といっても、福沢の言い方をすれば「取付端(とっつきは)がない」(福翁自伝)。


「生涯の中で大きな投機」(前掲書)を行なったのは、この時である。
福沢は、紙を押さえてしまったのだ。


数寄屋町の鹿島という大きな紙問屋に人を遣って、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を一度に買う約束をした。その時に千両の紙というものは実に耳目を驚かす。如何なる大書林といえども、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへもって来て千両現金、直ぐに渡してやるというのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すにきまってる。
                   (「福翁自伝」 274p)


こうして、大量の紙を土蔵に積み上げた福沢は、職人を呼び寄せる。
職人は、その紙を見て仰天し、「仕事は永続するに違いない」と信じ、出版のノウハウを福沢(の関係者)に教える。
こうして、書林の手を経ずに、自力での印刷・出版が開始される。


書林にはただ出版物の売り捌きを命じて手数料を取らせるばかりにのことにした
                   (「福翁自伝」 274p)


つまり、江戸期を通じて、未分化であった出版業と書籍販売業を、福沢は独力で分化してしまったのである。
自らベストセラー作家であった福沢は、このことで巨万の富を得る。


この紙購入の時期は、『福翁自伝』を読む限り、いつとは特定できないが、おそらく明治元年から、明治二年に「福沢屋諭吉」が書物問屋仲間に加入するまでの間だと推測される。
長屋正憲は、『福沢屋諭吉の研究』の中で、明治元年秋と比定している。


岩波文庫版『新訂 福翁自伝』所収の年譜によれば、慶応四年(九月に明治に改元)四月慶応義塾を鉄砲洲から新銭座に移転している(前年十二月に三百五十五両で買い受ける)。
長尾によればこの塾の移転に千両、出版自営の運転資金に五百両かけた上に、紙の一括購入千両である。
福沢は、この年八月に幕臣を辞めている(外国方翻訳局・禄高百五十俵)。
彰義隊と官軍との上野戦争は、この年五月。
幕府瓦解の混乱の中で、福沢がこの巨額の資金をどのように集めたのかに関心はわくが、それは本稿の主題とはかかわりがない。


長尾によれば、福沢はこの時期、『訓蒙 窮理図解』『洋兵明鑑』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』などを出版している。
販売の一部は、尚古堂になっているようだが、長尾の研究を読む限り、詳らかではない。
いずれにせよ、出版業と書籍販売業との分化という、今日の出版・書籍販売の形態に一歩近づけたシステムを取った福沢に、從來の書林は、困惑したに違いない。


福沢諭吉伝』所引の浅倉屋久兵衛談は、福沢のような「素人に勝手に出版されては営業が迷惑であるからいよいよ本業とせらるゝなら本屋仲間に加入」してほしいと本屋側から苦情が出た
                     (「福沢屋諭吉の研究」 230p)


福沢の方も「自分は本屋になったのだから其仲間に入ろう」(前掲書)と加入したとある。


こうして、福沢諭吉の手によって、「近代的」出版業と書籍商の関係の端緒が築かれたことは、特記しておいていい。

*なお、慶応義塾大学のHPに、「福沢屋諭吉」に関する記述があることに気づいた。URLは、以下の通りである。

http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/1.html