『解体新書』の扉絵


8月末、TBSの『世界遺産』で、『 プランタン−モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体』の放送があった。
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20070826/onair.html


放送内容には、やや不満が残った。
まず、30分の民放の番組で(つまりCMを考慮すれば、30分を切る)ウワ面をなめただけのような内容だった点。
さらに、プランタンが、まるでカトリックの布教者のように語られたように感じられた点だ。


番組最後のクレジットに、監修・宮下志朗と見た時は、はっきり驚いた。
宮下の書物によって、プランタンが「愛の家族」と呼ばれる再洗礼派(ミュンスター反乱を始め、宗教改革の最過激派といっていい)の流れを汲むと推測される秘密結社のメンバーだったことを知っていたからである。
アイゼンシュタインは、プランタンとフェリペ二世の顧問官で宮廷学者でもあったモンターノとの親密な関係について述べ、次のように書いている。


著名な対抗宗教改革派の学者でもある優秀なカトリックの役人が、実際には、こともあろうにエスコリアル宮の地下深く破壊的な「細胞」を組織する仕事に携わっていた
エリザベス・アイゼンシュタイン『印刷革命』190〜191P


アイゼンシュタインは、異端(カトリックから見てだが)の教義を奉ずるものの代表的印刷者として、プランタンを上げているのだ。


世界遺産』としては、調和的な人格者にしたいといういとかもしれないが、ちょっと納得できないという印象を持った。


そんなこともあり、しばらく前、印刷博物館に行った際に購入した「プランタン=モレトゥス博物館展」のカタログ『印刷革命がはじまった――グーテンベルクからプランタンへ』を読んでみた。(このカタログは、まだ購入できるようだ。)
http://www.printing-museum.org/floorplan/shop/index.html


興味を覚えたのは、中西保仁の『オフィシーナ・プランタニアと日本』という一文であった。


その中で、『解体新書(1774年、安永三年・須原屋市兵衛)』の扉ページが、本来の『ターへナルアナトミア』の本来のページではなく、プランタン印刷のワルエルダ『Vivae imagine partium corporis humani aereis formis expressae(1579年)』からの引用(複製・複写)であることを知った。
筑波大学およびGALLICA・フランス国立図書館のサイトでそれぞれ見ることができる)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/jyousetu/nihon/kaitai.html
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k206031f



さらに、ライデンやアントワープのオフィシーナ・プランタニアで印刷されたドドネウスの『Cruydt-boeck・草木誌(ライデンで印刷されたのは1618年)』が、江戸期の日本に多く入り、大槻玄沢『六物新志(1785年、天明六年・木村兼霞堂蔵版)』や森島中良『萬國新話(1789年、寛政元年・藤屋浅野弥兵衛)』や、さらには平賀源内の「物類品隲」に引用されていることも知った。

『Cruydt-boeck・草木誌』は、東京薬科大学のサイト
http://libnews.bus.toyaku.ac.jp/kikobon/plant/plant002.htm

『六物新志』(ニクヅク図・Cruydt-boeckの1393pの図)は、京都大学のサイト
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/fy4/image/01/fy4s0034.html

『萬國新話』(根樹之図・Cruydt-boeckの1415pの図)は、九州大学のサイト
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/bankokusin/page.html?style=b&part=2&no=10


須原屋市兵衛が、江戸を代表する書物問屋であることは、いうまでもない。
プランタンの書物と、江戸市中屈指の書物問屋・須原屋との出会い。


遠くにあったものが、本当は親密だったことを知らされた思いがする。


中西はさらにさかのぼって、天正遣欧使節団が持ち帰った本の中に、プランタンの印刷した本が含まれていたことを推論する。
天正十八年(1590年)、使節団は帰国するのだが、この年はプランタンが亡くなった翌年にあたる。


史料は、キリシタン弾圧の中で失われた可能性があり、現存するものはないようだが、高い蓋然性を感じる説である。


印刷革命

印刷革命