艶本江戸文学史

前回「出版されなかったにせよ、ある程度のものが江戸期に、自筆本・写本の形で私蔵されきた証左であろう。」と書いた。
不明を恥じるばかりであるが、林美一の「艶本江戸文学史」を読んで、夥しい数のポルノグラフィが、江戸期を通じて版行されていることを知った。
それも、様々な形態の書物として、江戸期全体を通じてである。(刊行年が弘化、嘉永安政文久となっているのを見ると、ペリーの来航も、幕末の混乱も関係なく、こうした本が出版されていたことに驚くとともに、嬉しさを感じてしまう。)
浮世草子、読本、噺本、滑稽本、洒落本、人情本黄表紙、合巻、根本。
林が取り上げる「艶本」(ポルノグラフィ)は、江戸期の書物・文学の移り行きに即して(さすがに物之本はないものの)地本のあらゆるジャンルに及んでいるかのようである。
しかも、それらのポルノグラフィの印刷の中には、豪華を極めたものもあったらしい。

艶本の中にも読本形式の作品があることを知り、原本を見るに及んで唖然となってしまった。そこには焦茶どころか、金粉・銀粉まで使用し、空摺・キメ出し・漆・板ぼかしとあらゆる技巧を使って絢爛たる錦絵摺の、むしろ一般公刊本の絵本よりも幾層倍も豪華な彩色の挿絵が何図も挿入されているではないか。
                    『艶本江戸文学史』p6 


ここで林が述べている、印刷技法に関しては、私は、詳らかでない。しかし、「絢爛たる」印刷物であることは、かつて二見書房から出ていた「秘蔵の名作艶本」シリーズを読んだ記憶から想像はできる。


これらの「絢爛たる」書物は、公に売られていたわけではないだろう。
かりにポルノグラフィでなくても、庶民の倹約第一の幕府に取ってみれば、「絢爛たる」だけで、規制の対象になったはずだ。
しかし、実際には、夥しい点数が版行され、それらの書物に需用があったことは間違いない。


為永春水は、天保の改革時に処罰されるが、その間の事情を林は次のように書く。

当時町奉行から市中取締三役(隠密廻・定廻・臨時廻)に人情本・好色本の書上げを命じた報告書が伝えられているが、それには六十点を越す人情本が板元別に書き上げられているほか、二十余点の艶本が、やはり板元別に報告されており、その中には『花鳥余情 吾妻源氏』『色のほどよし』『今様三軆志』『秋の七草』などをはじめ、『偐紫田舎源氏』の作者柳亭種彦の命取りになったといわれる『春情妓談水揚帳』三冊の書名も見える
  『艶本江戸文学史』p264 


ポルノグラフィが、20数点印刷され、販売されていたことは、間違いない。


これらの印刷部数、販売価格、流通ルートについて、研究が進んでいるのだろうか? 寡聞にして、私は知らない。


いずれにせよ享保八年の大岡越前の出した出版条例の時期、恋川春町達や山東京伝が処罰される寛政の改革の時期、為永春水が処罰される天保の改革時期を除けば、かなり規制はおおらかだったのではないかと思えてならない。


ちなみに、林は『艶本江戸文学史』の中で、恋川春町の『遺精先生夢枕』という黄表紙艶本を公開している。『金々先生栄花夢』シリーズとも言える、なかなか愉快な本なのだが、内容はさておき、

松平定信からの)召喚の対象となった作品も実はこの『遺精先生夢枕』が、夢に託して将軍家斉公の乱行を記したとの嫌疑によるとの一節があるからである。
  『艶本江戸文学史』p231 


林美一は、すぐにこの時期(寛政元年)家斉は十七歳で将軍になって二年目だから、この説はあてにならないと指摘している。
実際読んだ限りでは、大名家の性の乱脈ぶりを、うらやましがっているようにすら読める。幕政を諷したようには思えないが、定信の気には障ったのだろう。


ポルノグラフィの危険度が、ヨーロッパと日本では、異なっていたのではないかと思えている。
サド侯爵を頂点とする、ヨーロッパのポルノグラフィは「哲学小説」と呼ばれるが、基本的には、ロゴス中心主義の社会に対しパトスを対峙し、二元論を突き抜けよう(逆転しよう)とする。それ故に革命思想だった。


それに対して、江戸期のポルノグラフィは、とりわけ人情本の系譜がそうだが、人情や恋情の機微を書いていく。
先鋭的な批判はなく、せいぜい将軍の荒淫を揶揄したとか、婦女子に悪影響をあたえるとかでしかない。


どちらが上質とかいうわけではなく、そのように違うと感じられるだけだ。
その限りでは、締めつけを強化する改革の時期を除いて、規制はおおらかだったのではないかと考えている。


艶本江戸文学史 (河出文庫)

艶本江戸文学史 (河出文庫)