江戸の禁書目録

今田洋三「江戸の禁書」の中に、明和八年の禁書目録が掲載されている。
これは、京都の書物屋仲間がまとめたもので、今田はその背景について以下のようにまとめている。

出版界では江戸根生いの書物屋が急速に力を伸ばしていた。それに圧倒されて、元禄以来、江戸の出版界を牛耳っていた京都の本屋の出店が、つぎつぎと閉店のやむなきに至っていた。
 京都本屋仲間としては、このあたりで結束をかため、守成の実をあげるためにも、さまざまな話合いがおこなわれたであろう。この際、業界の混乱や権力の介入をさけるため、あらためて『禁書目録』が作られたのであろう。それはまた、江戸出版界に対する一つの牽制策でもあったにちがいない。
                    『江戸の禁書』p2 


明和八年(1771)、幕政は田沼が握り、江戸を中心とした文化が花開こうとしている時期である。
4年後の安永四年には、恋川春町金々先生栄花夢」が出版され、黄表紙が一世を風靡するし、10年後の天明期に入ると、蔦屋重三郎が、本格的に出版の中心に躍り出てくる。


京都書店仲間の思惑がどこにあったのかを詳らかに論じる能力は、私にはないが、この目録が、江戸時代の出版規制を伝えていることには、非常に興味がある。
なにより、この目録が、業界の内部文書であることが重要である。
幕府が、この本は、禁書であると指定したわけではない。


すでに、「福沢屋諭吉」の稿で検討した通り、江戸期の出版規制は、享保七年の大岡越前守が出したの出版条目によっている。

この出版条目は、今田の現代語訳によれば、出版禁止事項五条が書かれたあとに

右の定めを守り、今後、新作の書物を出す場合は、よく吟味して商売すること。(略)新板物は、仲間内でよく吟味し、違反なきよう心得よ。
  『江戸の禁書』p6


とある。
実際の運用がどのようであったかは検討する必要があるが、文言だけを読めば、禁止項目の原則だけを決め、業界の自主規制に任せているように、受けとれる。
逆に言えば、「大丈夫」と判断したものが、突如処罰される可能性がある。
いずれにせよ、教会や国家が、一冊ずつ禁書目録を決定したヨーロッパの出版事情とは、少し異なっているような印象を受ける。


さて、禁書目録であるが、五種に分けられている。
第一種は、キリスト教関連。
今田は、38の書名を挙げ、解説を付しているが、マテオ・リッチ(利瑪竇)をはじめとする宣教師や中国のキリスト教徒が書いた(翻訳した)中国語の書物である。
これらは、長崎において、書物改役が舶載の書物を一冊ずつ検閲したと、今田は指摘している。
無論、国内での印刷は、禁止である。


ただし、学校で習った歴史によれば、享保の改革の際、漢訳洋書の輸入制限を大幅に緩和したはずだが、この目録では、禁書になっている。
輸入は緩和したが、出版は禁止したのだろうか?
今田は

書物屋たちは処罰を恐れて。これらの書物を公然とは売買しようとはしなかった。
  『江戸の禁書』p13


と書いているが、とすれば、本屋仲間の自主規制であったのかもしれない。


先の五種の分類で言うと、第二種は、写本で売買禁止になったり幕府の禁忌に触れそうなもの、第三種は完本で絶版になったもの、第四種は京都書物や仲間の判断で理由は不明だが売買停止にしたもの、第五種は素人の出版物、他国の出版物で、京都では取り扱わないものになっている。

以上合わせ、かなりのタイトルが列挙されている。
タイトルを読むだけで、内容までは正しく判断できないのだが、そのほとんどは、神道をはじめとする偽書トンデモ本)、武家をはじめとする家筋・先祖にふれた本、家康の事績(関ヶ原合戦大坂の陣の記録を含む)、将軍家(由井正雪関連・赤穂浪士関係を含む)にふれたものなどである。
建武年中行事略解」という書名もあるが、この本について詳らかでないので推測にすぎないが、後醍醐帝の事績は、禁書だったのか、あるいはこの本自体がトンデモ本だったのか?

ポルノグラフィとおぼしき書名は「百人女郎品定」が見えるだけである。
享保八年停止の好色本、という項目があるから、享保七年の出版条目にいう「好色本の類は、風俗を乱すもとになるので絶版とせよ」という規制に基づき、タイトルを挙げるまでもなく、一律禁止だということのようだ。
なお、「百人女郎品定」については、英一蝶が「百人女臈」という綱吉と愛妾お伝の方の船遊びの絵を描いて処罰されたとも、西川祐信という浮世絵師が「百人女臈品定」という京都朝廷の貴族を題材にした絵を描き、その後「夫婦契りが岡」という枕絵を出版したなどの説が、今田によって挙げられているが、それらを読んでもはっきりしない。
いずれにせよ「百人女郎品定」という本は出版され、その絵も本書に挿入されているので、枕絵はともかく、この本が絶版になったことは確かだろう。


好色本(枕絵はいうまでもなく)は、一律禁書になっていたようだが、実際にはどうだったのだろう。
洒落本は、この禁書目録の前後、寛政の改革まで隆盛を極めるが、これ自体ポルノグラフィとは言えないが、かなり「好色本」ではあろう。
これは仮説であるが、「偐紫田舎源氏」や上記の「百人女郎品定」のように、将軍家や・朝廷、大名家を推測させる(つまり批判揶揄する)ものでない限り、規制は緩かったのではないかと考えている。


藤實久美子は、本書の解説で、「日本書籍書誌学辞典」の禁書の項目に、今田が書いていることを引用している。

江戸時代における「国禁耶蘇書」以外の「絶版書」「売止め書」等の発禁本は、禁書としては登録されず、かつ私蔵・私習まで禁じられていない
  『江戸の禁書』p211


今日、林美一などにより、江戸期の枕絵の研究、出版の試みは進んでいるように見える。
出版されなかったにせよ、ある程度のものが江戸期に、自筆本・写本の形で私蔵されきた証左であろう。


時代は大きく下るが、幕末期、「日本を訪れた外国人を驚かせたのは、春画・春本の横行である(逝きし世の面影 p315)

「あらゆる年齢の女たちが淫らな絵を見て大いに楽しんでいる」
  『逝きし世の面影』p316


と書いたのは、トロイ遺跡発掘のシュリーマンだし、

「猥褻な絵本や版画はありふれている。若い女が当然のことのように、また何の嫌悪すべきこともないかのように、そういったものを買い求めるのは、ごく普通のできごとである」
  『逝きし世の面影』p316


というのは、ロシア艦隊に勤務していた英国人。

「女が春画を見ていても怪しまれない」
  『逝きし世の面影』p316


と驚くのは、ペリー艦隊に随行した中国人である。



幕末の状況を、江戸期全体に拡大することは危険だが、ポルノグラフィの規制に関して、江戸期は、西洋の基準とも、中国の基準とも違うものを持っていたかもしれないという推測をしたくなる。




江戸の禁書 (歴史文化セレクション)

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逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

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