『信貴山縁起』・読者についての疑問
中世の日本の文学に関して、あるいは美術に関しても、さらには社会史・歴史に関しても、通り一遍の知識しか持っていない。
この稿で覚え書きとして記しておきたいのは、このところ気にかかってしかたない疑問に関してである。
追々解決して行ければといい、という目論見にすぎない。
最初に疑問がわいたのは、『信貴山縁起』に関してである。
言うまでもなく説話絵巻の代表作であり、その絵画の素晴らしさと独自性は、群を抜いている。
無論、国宝である。
しかしながら、この絵巻は、誰に、どのように読まれてきたのだろうか?
まず、『絵巻』一般の読まれ方を考えてみなくてはならない。
武者小路穣は、『絵巻の歴史』の中で『信貴山縁起』について以下のように述べている。
紙を横につないだ巻子の長さと、それを少しずつくりひろげていくという観賞法をこれほどまでに効果的に利用して、しだいに転換していく舞台の上で自由に登場人物を活動させ、説話の展開を流れのままに表現しえたことは、先行する中国の図巻にも、日本のそれまでの絵画にもみなかったところである。同じように鑑賞者が膝の前にちょうど両手をひかえたくらい――約五ー六〇センチメートル幅でひろげて見ていくといっても、物語絵巻の場合には、詞書を、そして絵画をと、一段また一段とくりひろげて、ある場面からまったくちがった次の場面へと移っていくのだが、ここでは少しずつ巻物をくりながら画面をずらしていくのにつれて、回り舞台のように背景がしだいに転換し、自然に時間も移り変わっていく。
(「絵巻の歴史」 62p )
つまり、絵巻は今日の本同様、ひとりが読むためのメディアであったことは、確実である。
複数の人が同時に拝観したり、あるいは教化のための説法に使ったりできるものではない。
であるならば、誰がこの絵巻を受容したのか?
オリジナルは、当然、一部しかない。模本、写本が作られたかもしれないが、もとより今日伝わっている「国宝」級のレベルに達したとは思えない。(ちなみに先日、NHKハイビジョンで見た『鳥獣戯画』の模本は、絵が著しく稚拙だった。)
そもそも、古代末(平安後期)から中世(鎌倉期)において、絵をかくことは簡単なことではなかった。
武者小路は前掲書の中で、「彩色画ということになると、良質の胡粉、朱、群青、同黄などの絵具は、いずれも海外から舶載の高価なものであり(19p)」、と述べている。
『信貴山縁起』は、彩色されていた。
私見にすぎないが、多数の模本が作られたとは思えない。
一方、武者小路は、それ以前の『源氏物語絵巻』などの物語絵は、「後宮や高位の貴族の邸内奥深くのごく限られたものだったはずである(20p)」とも書いている。
「信貴山縁起」にもどって考えてみると、この絵巻の内容は「説話」を伝えるとともに、信貴山の霊験功徳を伝えるもののように思える。
最初に読んだ時、寺の「パブリシティ」なのかという印象さえ持った。
この感想が妥当かどうかは置くとしても、ごく少数の人に読まれるのでは意味がないのではないか、と感じたのである。それが、疑問のきっかけであった。
一方で、高位のごく少数の人の「支援」を得られれば目的が達せられるなら、オリジナルを都の貴族の間で回し読みすればすんだのだろう。
時代が大きく違って比較になるかどうかわからないが、江戸初期の「嵯峨本」(古活字本)ですら、ごく少部数が作られたにすぎない。
京都の貴族階級の閉鎖社会の需要に応えれば、よかったということも考えられる。
いずれにせよ、日本の中世期の「読書」のあり方、書物はどのように受容されたかについて、思いめぐらしている。
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