禁書目録

ポルノグラフィの専門家のだれでもが―――そしてその後継者の多くが―――近代的なポルノグラフィの祖とするのは、一六世紀のイタリアのピエトロ・アレティーノである。
                     『ポルノグラフィの発明』p22


『ポルノグラフィの発明』の編者であるリン・ハントは、そう書いている。


ここで、「近代的な」という語が、重要になる。
いうまでもなく、古代ローマの古典文学には、猥雑なものがたくさんあった。
ルネサンス期の人文主義者は、古典を再発見していく過程で、これらの「猥褻な」もの、キリスト教的に「スキャンダラス」のものも発見してしまう。
上記の本の中の論者のひとりポーラ・フィンドレンは次のように指摘する。

キリスト教以前の文化に関してもっとも誘惑的で、不安を生じさせる二つの要素は、セクシュアリティにたいする態度とその描写であった。人文主義者たちは古典を模範とする文化を作り上げようと試みるさい、キリスト教社会の目標にどんなに背くものであれ、その価値観や習慣と折りあいをつけなければならなかった。ヨーロッパの修道院の書庫を漁ることによって、失われていたキケロの書簡が見つかったばかりではなく、またあからさまにエロティックな文化が存在したことを裏付けるような証拠が広い範囲で明らかになった。こうしたエロティックな文化は、見ないでいることがいちばんいいような行為を描き、のちに自然に反する(コントラ・ナチューラム)と規定された行為を崇めていたのである。
 『ポルノグラフィの発明』p79

ごく少数の人々が、ごく限られたサークルの中で回読するのならば、これらの問題点は秘密にされ、さして大きな問題ではなかったかもしれない。
しかし、印刷は、この秘密を大衆化する。


「エロティックで猥褻な一連の戯れ歌(P80)」である『プリアペイア』というウェルギリウスのものとされる作品は、一五世紀写本として流通していたが、一四六九年以降、ヨーロッパ中でウェルギリウスの全集に含まれる形で印刷された。
一六〇六年に編纂された『プリアペイア』は、「注釈があまりに猥褻すぎると(P82)非難されるが、大衆化に大きく貢献したらしい。


この、「印刷」と(相対的に)広範な読者が入手できることが、「近代的」ポルノグラフィを誕生させることになる。

フェリペ二世のエスコリアル宮殿に掛けられていたティツィアーノのエロティックな絵画はカーテンによって隠され、フェリペ二世が気に入った訪問者にしか見せなかったのだが、その一方で、民衆的な人気版画や書物はほとんどの都会の中心地にある書店で入手できるようになった。エロティックで猥褻なテクストが印刷され出回るようになったとき、さまざまな権威筋が反応したことは、知識の獲得が社会的、知的エリート層にかぎられていた社会から、そうしたエリート層が秘密にしていたことが日常的に無差別に暴露される社会へと不安な移行が進行しつつあることが示されている。(中略)印刷術による新たな交換の媒体の形成は、言葉や図像の流通を限られたエリート層にだけ封じこめようとしてきた、文学愛好家(letterati)の暗黙の盟約をくつがえすことになった。
 『ポルノグラフィの発明』p54


アレティーノの「淫蕩ソネット集」(性交のさまざまな体位を生々しく描いた版画つきの猥褻なソネット集)は、マキャベリの著作などとともに、禁書となる。
ポーラ・フィンドレンが引用する『トリエント公会議による正典目録と教令集』には、次のようにある。

みだらで猥褻な事柄をおおっぴらに扱ったり、語ったり、教えたりする書物は断固として禁書にしなければならない。信仰ばかりではなく道徳もまたこうして書物を読むことを通じてたいてい容易に堕落してしまうので、信仰や道徳の問題を考慮しなくければならないからである。またこうした書物を所有する者も司教によって罰せられなくてはならない。異端者たちによって書かれた古典古代の書物は、優美で質の高い様式のために許容されるだろうが、けっして子供たちに読んで聞かせてはならない。
 『ポルノグラフィの発明』p54


印刷以前、「知」を独占してきた(写本の形で)「徳の高い」聖職者・王侯貴族などは、フェリペ二世のカーテンに隠されたのティツィアーノのように、エロティシズムいっぱいの絵画も猥褻な文章も独占する。
何しろ「徳が高い」のだから、「信仰や道徳の問題」は、考慮しなくてもよいわけだ。
アレティーノはその欺瞞性をあばいてしまう。
「それなら、娼婦は、宮廷人と同じくらい罪深いのかしら」(p101)
やがて、この欺瞞を暴きつくし、哲学的課題にまで高めたところに、ポルノグラフィの頂点としてのサドの文学が生まれることになる。


一方、「禁書目録」に載せたということは、当時の印刷・出版業者・書店に、売れる本は何かを教えるのと同様である。そのことは「宗教改革」の書物を検討したときに確認してきた。

書店の奥にある秘密の部屋で、印刷業者は、急速に増えつつあったエロティックな文学を手に入れたくてたまらない読者の要求を叶えていた。
 『ポルノグラフィの発明』p56


しかも、ヴェネチィアで売られていたアレティーノの本は、ロンドンで印刷されていた、とポーラ・フィンドレンは、指摘している。


ポルノグラフィの発明―猥褻と近代の起源、一五〇〇年から一八〇〇年へ

ポルノグラフィの発明―猥褻と近代の起源、一五〇〇年から一八〇〇年へ