20年を経て


先日、必要があって「リクルート事件」の記事を読むために、朝日新聞の縮刷版を繰っていた。
1989年2月13日の月曜、江副逮捕の記事を探している時、その前日の日曜の読書欄に目が止まった。


まず「パソコンで『本の情報』速く広く」という記事。
初期のパソコン通信の紹介記事なのだが、ニフティの会議室や、パソコン通信で本が買えることなどが書かれている。
さらに、紙面下段には「書物の現在」吉本隆明蓮実重彦清水徹・浅沼圭司共著という広告があり、「活字文化の衰退という俗説を排し、グーテンベルクから電子出版に至る書物の歴史と現在を検証しつつ、今日の出版の問題をするどく剔抉する。」とある。
文体はともかくとして、コピーの内容は「二十年一日」という感じがした。


書物は、あるいは電子メディアは、この20年で実際にどれほど変化したのだろうか。
そのことを確かめたくて、早速、この「書物の現在」を、インターネット経由で購入した。


注文した翌々日に手元に届いたから、本の購入が容易になったことは、まちがいない。


仮に1989年の時点を想像してみれば、その時点から20年以前に出版された本を探しだすのは、よほど売れて版を重ねた本か古典として定着した書物以外は、容易でなかったはずだ。
まして、この本は、大手の出版社が出している本ではない。


書店の客注は、まず無理だったに違いない。かりに版元に残っていたとしても、手元に届くのに2週間くらい、場合によっては1ヶ月はかかったと思う。


多分、神保町や新宿などの大型書店の棚を軒並みに見て回り、あるいは、規模の小さな書店に20年売れなかったものがひっそりと残っていないか、足を棒のようにして探しまくることになる。


ついで、古書店巡り。
それでも見つかるとしたら、僥倖だったに違いない。


探書、という意味では、この20年は「一日」では、なかった。


さて、2日後に入手できたこの本の内容だが、安原顯がプロデューサーとなって開いた、横浜での「文化講演会」での講演集だ。


清水徹の講演が、電子書籍や、書物の「新しい形」に言及している。
清水が予想している「辞典・辞書」類の電子化は、すでにインターネットや、ケータイで実現している。
もっとも清水は、CD-ROMやレーザーディスクで考えているのだが、そのことはいたしかたない。
また、キャプテンやINSを介してDBとつながるだろう、という予測も、インターネットが実現した。
パソコン通信普及の初期の段階で、いい線いっている予想だったかも知れない。


一方、本と映像の融合、本を読みながら必要に応じてビデオ映像を見る、という予測は、はずれたようだ。


ビデオ・ブックのようなものがかつてあったと思うが、まだるっこしくて見るにたえなかった記憶がある。
映像と本が、融合することは実現しないかも知れない。
本を読むという行為と映像を見るという行為のあいだには、同時に行われえない、本質的な何かがあるようにすら思える。(あるいは私個人の資質のせいかも知れないという留保は付けておこう)


吉本は、雑誌というメディアの衰退を「試行」の編集作業を通じて語っているのだが、現在の出版界・雑誌の状態を語っているといってもよいくらいだ。
20年前よりさらに出版をめぐる状況が危機的になっているにすぎず、その危機の本質は、変わっていない。
20年間、手をこまねいてきたわけだ。


今の時点から見れば、もっとも「目」がよかったのは、浅沼圭司だったようだ。

たとえば著作権による書物に対する著者の絶対的な権利と保護などというものも、(中略)ある意味では、書物の知的な内容というものが特定の個人に、そしてその個人が所属している知的階層に所属しているということを明確にして、書物の知的内容は決して一般人の共有物ではないのだ、ということを明示しているのだと解することも不可能ではない。(中略)つまり印刷が普及し、書物が次々と刊行されても、必ずしも一般の人の所有にはならず、学者は、私などもその一人でありますが、学問的タームを独占的に駆使して学壇あるいは論壇というものを作る、同様に文学者たちは文壇を形成していく。そしてかつての聖職者に代って、高度の知的内容の書物を一般人に解読してみせる知的な職業人としての解説者(私を含めた学者もその中に入れてよいのでありますが)、そして一般人に代ってある書物の知的内容の価値を判断してみせる、いわゆる職業的な批評家が、印刷の普及とともに誕生して行きます。(中略)
 ですから、印刷というものは、思いきって単純化して考えますと、人間の中にいかなる階層も認めないような社会、いかなる人間も完全に平等であるような社会にこそ、その姿を最も純粋な形で表すのだということができるのかも知れません。印刷が本来のあり方を完全に開花させているような社会においては、ですから、論壇とか文壇とか象牙の塔などといったものは解体し、そして職業としての解説や批評も、現在のような形では成立しがたくなっているのではないでしょうか。
                      (p38〜39)


おそらく、この20年で、大きく変わったのは、インターネットを介して、(可能性としては)誰もが発信できるようになったことであろう。「ウィキノミクス」な社会は、地滑り的に書物をめぐる状況を変えてしまった。論壇や文壇とかは、浅野の考察通り、衰退(解体)に向かいつつあるという予兆を、私は感じている。

そしてもはや印刷のように、抽象的な間接性むきだしの媒体ではなくて、直接的であるかのような経験をさせる媒体を招き寄せたと言ってよろしいでしょう。問題はあくまでそれが真の直接体験をもたらすものではなく、間接性を残した疑似的な直接体験を与えるのみだということでしょう。 (p45)


これは写真・テレビ・映画に関して述べられた部分だが、驚くほど現在の状況を照らしている。
インターネットが萌芽期にあった時代としては、(大多数の日本人は、その存在すら知らなかったはずだ。ブラウザーmozaicができたのは、1993年)とんでもなく先駆的な考察だったと思う。


私たちの、「書物の現在」は、浅野の考察の延長上にいる。


書物の現在

書物の現在