円本と新聞宣伝
「出版と社会」は、大部の書である。触れられる「昭和出版史」のエピソードは、それぞれ興味深いにせよ、読み上げるのに相当な時間を要した。
まず、私は、著者が「序 出版のパラダイム」で述べている「出版現象の成層構造」などの所論に与しない。
本書30Pに掲載された図によれば、最下層に「4 日常生活」があり、その上に「3 情報」、さらにその上に「2 知識」さらに上に「1 知恵」があるとされる。(円錐として図示されている・また本文中の数字はローマ数字、以下同)
「知」をこの上昇過程と捉え、出版や編集者を、この上昇過程の啓蒙的な導き手のように考えているのがうかがえる。
「知識人と大衆」といった形での捉えかたが、高度に情報化した「資本主義社会」(これを正確になんと呼ぶのかは知らないが)は、こうした考えを無化してきたことは、私には自明のことに思える。
その自覚の上で、現在の編集・出版という営みは、行われているのだと思っている。
本はこの1から4までを結びつける素材である。マルチメディアの金属箱は、3の情報の機能面を強化するには役立つが、1 2とはあまり関係ない。つまり人工頭脳の作為の世界、ロボット的世界は、人間という生物の存在にとって本来的ではないと思うのである。 (出版と社会 31p)
こうした「啓蒙的」な認識の上に立って
精神公害・社会公害という角度から、生活空間の汚染度を思うと、出版界の関与はじつに深いと思うのである。それはJR・私鉄の中吊り広告の「見出し」が何よりもよく語っているだろう。あれをつくった編集者も、入社した初心のころには、決して、あのような当事者になろうとは夢にも思わなかったのではないか。 (出版と社会 15p)
と現在の編集者を叱責する。
他人は知らず、少なくとも私は、編集者が職業上知りうる情報の多さ少なさの差はあるにせよ(これはたとえば電気会社に勤める人が電気に詳しいのと本質において違いはないはずだ)、「日常生活」を営む人と、知的な差異があると思ったことはない。
そう考えた上で、日々、表現のありようを考えている。
この「出版と社会」は、「円本」を契機として、規模の大きくはなかった日本の出版社が、拡大していく過程を描いている。
新潮社に関しての佐藤春夫の以下の文が、興味深い。
もともと[佐藤] 義亮氏は改造社の当時の出版ぶりを評して、あのような投機的な出版を見ると小心な自分などは人ごとながらあぶなっかしい気がする。(中略)昔から紙屋は利の細い商いで厘毛の儲を積むみみっちい商法と云われていますが、本屋というものも所詮は活字を刷った紙屋なのですから細い利潤を積む気でかからなくてはと語っていたのを自分は氏の堅実な為人を語ったものと感じ、今も本屋は活字を刷っただけの紙屋の説をはっきりとおぼえている
(佐藤春夫「知遇に感謝して」。天野雅司編『佐藤義亮伝』新潮社、昭和二十八年)
(出版と社会 194p)
実際には新潮社は昭和二年「世界文学全集」で、「円本」の争いに参加していくのだが、「円本」以前の出版社の経営姿勢、企業規模がうかがえる談話だと思う。
改造社に始まる「円本」は、新聞を使った大宣伝合戦として、本書に描かれる。
宣伝費をはじめとして、投下した資本を回収するための大量の発行部数。
この時期に、出版社の経営形態・経営手法が確立したと思われる。
宣伝媒体が新聞中心であることも含め、「円本」当時と現在と、その販売手法に大きな違いはないように感じられた。
- 作者: 小尾俊人
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