古代ローマの書物事情


WOWOWで放送中の『ローマ』を見ている。
それなりに面白いのだが、見ている自分に古代ローマ史の基礎知識が欠けているのが、よくわかった。

幸いなことに、ローマの通史に関しては、私たちは『ローマ人の物語』(塩野七生著)という、わかりやすくしかも面白い、優れた本を持っている。
カエサルからアウグストゥスにいたる『ローマ人の物語』の数巻を読み、基礎知識を持った上で、『ガリア戦記』・『内乱記』・『プルターク英雄伝』・キケロの著作や書簡、さらにはタキトゥスの『ゲルマニア』・『同時代史』・『年代記』まで、読み進もうと思っている。

これが、結構面白く、ついつい『書物史』の本を読むのも、なおざりになりがちだ。


で、『ガリア戦記』である。
紀元前1世紀に書かれた本の翻訳を、寝転がって文庫で読めるということ自体が、不思議な気がする。
この書物の写本を作り続けたヨーロッパ中世に恩沢を十分に受けている。
ちなみに、岩波文庫の解説(近山金次)によれば、『ガリア戦記』の重要な写本は、十指にあまるという。


一方、他の疑問が起こってきた。
手元にある岩波・世界史年表(歴史学研究会編)は、紀元前51年の項に、『ガリア戦記』刊.とある。
紀元前46年に書かれたとされるキケロの「ブルートゥス(ブルータス)」の中に、カエサルの雄弁を論ずるのに関連し

彼(カエサル)は、同様に、自分の人生についての手記を書いた。この手記は、本当に称賛に値する。それは、自然で、シンプルで、優美であり、雄弁術の装いに飾られていない。*1

この後に、称賛のことばが、さらに続くのだが、これが『ガリア戦記』について語られていることは、間違いないと考える。
紀元前46年には、読まれていたわけだ。

しかし、「刊」という言葉に引っかかった。これは、「出版」する、という意味だと思う。
(むろん、印刷はしないが)

古代ローマの本、あるいは「出版」とは、いかなるものだったろうか? という疑問である。


まず、本について考えたい。

紀元前1世紀のこの時期、支配階級、上層階級、知識階級に、本が普及していたことは間違いない。

『読むことの歴史』(ロジェ・シャルティエ他編 グリエルモ・カヴァッロ論文)の中で、カエサルに攻められた小カトーが自死する前が、取り上げられている。
プルターク英雄伝』によれば死の直前、小カトーは食事の後、読書にふける。

自分の部屋に入り、彼は横になり、プラトンが魂について論じている本(パイドン)を手にした。彼は、本の大部分を一読した。そして、頭上を見上げたが、吊るしてあるはずの剣が見当たらなかった。(というのも、彼の息子が、カトーがまだ食卓に着いている間に、剣を片づけてしまっていたのだ)カトーは奴隷を呼び、剣を持ってくるように命じた。奴隷は押し黙り、カトーは本を読むことに戻った。*2

小カトーはポンペイウスにくみして、カエサル軍とシシリアで戦い、アフリカに落ちのびる。
最後は、カエサルに包囲され、北アフリカ、ウティカで自死するのだが、その死の直前に、
状況にふさわしい魂の不滅を記したプラトンの本を選んで読んでいるのだ。
少なくとも内乱の間、持ち歩ける本が何冊もあったか、あるいは北アフリカでも選べるくらいに本が普及していたか、いずれかの証左であろう。

また、カトーは、寝転がって本を読んでいるようだ。(仏訳では“il se coucha”、英訳では“lying down”となっている)
古代ローマでは、食事も長椅子に横になってしていたと聞くから、不作法な格好ではなかったのかもしれない。
いずれにせよ、この当時の本は、巻子本である。
寝そべって読めるような、簡易なものがあったのだろう。

この他に、キケロの紀元前56年の書簡の文中に「ここの家においた書庫では、テュランニオーがわたしの書巻を整理して」(世界文学大系67・筑摩書房 昭和41年発行 泉井久之助訳)とある。
また、時代は下るがアウグストゥスが娘の子のところに行くと「子供はキケロの本を手にしていたが」(プルタルコスプルターク)英雄伝 キケロ)という記述がある。
少なくとも、上層階級・知識人階級に、本が浸透していたと考えられる。

では、この本は、どのように入手されていたのだろうか?


本屋があったのである。

ローマ帝国の「本」のセンターはローマである。(略)いまやローマの種々の場所に本屋が見られたが、交通の激しい場所が選ばれるのはいまも変わらない。フォーロ・ロマーノの辺りにとくに多かった。
                       「パピルスが伝えた文明」p148

カエサルの時代の本屋は)マルティアーレスの詩によると、戸口の左右の柱にはいっぱい書きこみがなされており、人々はあらゆる詩人の作品をすばやく見つけることができる。戸口にはまた陳列台がおかれ、取扱い書籍の書名を書き出すか、またはレッテルをはりつけてある。本自体は戸口には展示していない。というのはパピルスの巻子本は、それ自体ほとんど展示の役に立たなかったからだ。しかし店の中に入ると、マルティアーレスが「巣穴」と呼んだ多くの書架があり、それは我々の本棚に似たものであっただろう。その書架では、巻子本は、おそらく木製あるいは瀬戸物の容器に入れて置かれるか、あるいは直接本棚の上に置かれていただろう。
                        「パピルスが伝えた文明」p158

それでは、「刊」・出版はどうなっていたのか。
教えてくれるのは、キケロの書簡である。
                         (この項続く)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

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ガリア戦記 (岩波文庫 青407-1)

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