アッティクス
岩波文庫版「キケロー書簡集」解説によれば、今日私たちが読むことのできるキケロの書簡のうち、「アッティクス宛書簡集」としてしてまとめられているものは426通におよぶ。
ルネッサンス期にペトラルカが、その発見に尽力したのだが、いずれにせよ紀元前に書かれた手紙を、これだけまとまった形で読めること自体が、驚異ではある。
さて、このアッティクスという人物である。
塩野七生は、『ローマ人の物語第五巻・文庫版12』で、キケロとアッティクスの親密な関係について、かなりのページを割いている。
アッティクス(アッティカ人)とは、彼のギリシア文化への傾倒から生まれた綽名で、本名はティトゥス・ポンポニウスという。(中略)政治に情熱をもちつづけたキケロとはちがって、アッティクスは、政治にはいっさいかかわらない生涯を送る。親の遺した豊かな財産を、金融業や剣闘士育成業や出版業などに巧みに投資した結果、経済人として大成していた。 「ローマ人の物語」・新潮文庫版12 p31
アッティクスは、キケロの著作を出版していたのである。
たとえば、キケロの書簡中の随所に、それをうかがわせる記述がある。
九月三十日、わたしは大祭官たちの前で、これについて弁論を張り、(中略)従ってこれは、われわれの若いジェネレーションのためを思えば、そのまま借りにしてはおかれない[出版せずにはいられない]と思う。君は別にほしくはないかも知れないが、いずれ近いうちにその原稿をお送りする。
『世界文学大系67』・筑摩書房 p219 昭和41年発行 泉井久之助訳
紀元前57年10月の書簡
わたしの弁論術に関する書物については、ずいぶん念を入れて書いて来た。長い間、努力をかけたが、もうコピーにかけてもらっていいと思う。
『世界文学大系67』・筑摩書房 p271
紀元前55年の書簡
著作の売り込みや出版許可など、これらの書簡は、まるで現在、著者が出版社にに宛てたものといっても見まがうほどである。
出版は、どのように行われていたのだろうか。
やはりキケロのアッティクス宛て書簡に以下のような一節がある。
『リーガリウス弁護』を君は盛大に売り込んでくれた。今後は書いたものはすべて、君に宣伝を頼むことにしよう。
『キケロー書簡集』・岩波文庫 p403
紀元前45年6月23日の書簡
岩波文庫版のこの文章への注に「アッティクスは、そのリガーリウス弁護論を賞賛し、おそらく朗読会を開いたのであろう」と記されている。
箕輪成男は、『パピルスが伝えた文明』の中で、古代ローマで本が作られるまでの、流れについて詳述している。
先ず新しい作品は、最初は友人仲間に、そして後には一般大衆に向って、著者が朗読することによって発表される。(中略)そうして朗読会は、著者と公衆を結ぶ、最も直接的な接触であり、著者にとって大変重要な刺激となり可能性を持っていた。作品の成功度をはかる一種の文学的バロメーターといってよい。
『パピルスが伝えた文明』 p151
この朗読会は、箕輪によれば「帝政ローマで大変人気を呼んだ」と書かれているから、これは推測にすぎないが、あるいは共和制末期のキケロ・アッティクスの試みは、その先駆で「盛大に売り込む」効果があったのかもしれない。
しかし朗読会で、口頭で公表しても、これは「発表」であって、出版とは言えない。
原稿を複数作り、販売する必要がある。
キケロが、先の引用で書いている通り「コピー」しなくてはならないのだ。
そして、印刷術以前のこの時期、その方法は「筆写」しかなかった。
(ブルートゥスは)、『リーガリウス弁護』の中でルーキウス・コルフィディウスの名が挙げられているのは私の間違いであると知らせてくれた。(中略)だから、お願いだ、パルナケース、アンタエウス、サルウィウスに彼の名前をすべての写本から取り除くように言いつけてもらいたい。
『キケロー書簡集』・岩波文庫 p411
紀元前45年7月28日(?)の書簡
やはりキケロが、アッティクスに宛てた書簡だが、入稿後に間違いに気づき訂正を求めている。
重要なのは、バルナケース以下の3人の名前である。
岩波版の注には、「三人ともアッティクスの奴隷あるいは解放奴隷で、筆者の仕事も担当していた者たち」とある。
つまり、「コピー」を行なっていたのは、この時期「奴隷」あるいは「解放奴隷」であった。
一体、どれくらいの部数がこの方法で「出版」されたのかは推測の域を出ないが、数十部から数百部であったと思う。
すでに書いた通り、書店があったにせよ、基本は「オン・デマンド」に近い形だったのではないか。
そうでなければ、いくら奴隷をつかうにせよ「業」としての出版は成り立たないのではなかろうか?
奴隷にしても、識字できる教養のある奴隷は、大変高価であったと思われる。
塩野は前掲書で奴隷について触れ、家庭教師とつかわれたギリシア人奴隷の貴重さについて述べている。
いずれにせよ、こうした形でおそらく「ガリア戦記」も出版されたに違いない。
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