読者の誕生

22篇のエッセイと小論からなるこの本は、一貫した論考が書かれた研究書ではない。しかし通読すると、ヨーロッパの書物史の流れが、概観できる。


この流れの中で重要なのは、3つのポイントである。

  • 最初に、「音読」から「黙読」への転換・「読者」の出現、
  • 次に、テキストの自己同一性の確保・「作者」の出現、
  • 最後に、著作権と原稿料の規則の確立・「作者」の完成、


まず、「読者」が成立した。


古代から中世にかけて、「書かれたもの」は、信頼されていなかったことが宮下によって論証される。プラトンの「パイドロス」に述べられている「書かれたもの」への不信を、宮下は、

要するに「文字」は「言葉(パロール)」の影にすぎない(15p)

と、要約する。


古代から中世前期にかけて、「声」は「書かれたもの」に対し、優位を保っていた。従って「宣誓」には、「声」が必要だし、その「宣誓」を保証するのは、「記憶」・「象徴物(たとえば剣)」・「証人」という3点セットであったことを、「トリスタンとイゾルデ物語」と絡めながら、語っていく。


この時代までの「読書」は、宮下の言葉では「聖なる読書」であり、

「読む」とは、テクストを一語一語噛みしめるように発音して、その声を聞きながら、身体化していくこと(11p)

であった。


おそらく中世のある時期まで、西欧であれ、日本であれ、「書物」は、音読されることを基本的な性質としていた。
アウグスティヌスの「告白」の一節は、古代の読書のありようを伝えている。アウグスティヌスは、アンブロシウスの読書法を特記している。彼の時代、つまり古代においては、「黙読」はアウグスティヌスを驚かせ、書き残しておかねばならないほどのことだったのだ。

ところで彼が読書していたときには、その目はページを追い、心は意味を探っていましたが、声と舌は休んでいました。(略)彼がそのように黙読しており、けっしてその態度を変えないのを見ました。(世界の名著「アウグスティヌス」昭和43年初版 191p)


「音読」が基本だったのは、以下のことが理由だったと思われる。
この時代から中世にかけ(グーテンベルク以前)「書物」は、もちろん大量に発行される訳ではなく、一冊ずつ書写されていた。また、ヨーロッパ中世に紙はなく、羊皮紙は貴重なものであった。「書物」は、現在の私たちには想像もできないくらいの貴重品だった。
つまり「書物」は、個人の所有物ではなく、「声」によって共有されるものであった。


その時代「書物」の多くが、主に宗教のためのものであったことは、容易に推測できる。宗教の教典や儀典書は、音読され「共有」される。
中世ヨーロッパ修道院では時梼書が「音読」され、日本の仏教では「読経」が行われる。


一方、宗教書以外の中世の物語も「語られる」。

中世文学とは広場の言語、口誦的な言語で成り立つところの、共同体を拠り所としたもので、作品は必ずしもテキストという支えを前提としていなかった。(243p)

それは「ロランの歌」も、「平家物語」も同様だろう。


つまり、中世のある時期まで、「黙読」は、特殊な「技術」であった。そもそも多くの人々が識字できないのだから、それは自明のことであると思われる。
この時期(中世前期まで)、アンブロシウスのような例外はあったにしても、「書物」の「読者」は、誕生していない。「書物」は、「共同」という位相の中で存在している。

ヨーロッパの場合、十二世紀から十三世紀を境にして書かれたものの重要性は圧倒的なものとなって、テキスト受用の世界に変動が生じる。黙読の習慣(修道院の写本工房から始まったという)が広がり始めるのだ。この画期的な習慣は誕生まもない大学の世界から、やがて貴族層にも波及して、十五世紀には書物に親しむ知識人たちのふつうの読み方になっていく。「俗なる読書」の到来である。書物は聖なる声・ロゴスを封じ込めたモノから、「知の倉庫」に変じた。(245p)

「黙読」は、「書物」の受用を大きく変える。


宮下が、この本の中で指摘している通り、現在の私たちは、たとえばたくさんの人が周りにいる電車の中で、個人的に「書物」を読むことができる。
それがポルノグラフィーだろうが、政治的に過激な「書物」だろうが、となりの人間にのぞき込まれないかぎり、読書は可能だ。
またその際、ページを戻ろうが、読み飛ばそうが、自由な読み方ができる。共同体の中での「音読」では、不可能なことを「黙読」は実現する。


つまり「黙読」の「発見」によって、「読者」・「読む自由」が出現した。


これが、私たちが現在読んでいる「書物」の誕生への第1のポイントである。


書物史のために パイドロス (岩波文庫) 告白 上 (岩波文庫 青 805-1)I アウグス ティヌス 告白 (下) (岩波文庫 青 805-2)