このブログについて


四半世紀あまり、雑誌の編集を職業としてきた。主に女性誌を作り、ここ3〜4年は、雑誌社のwebマガジンを作っている。
日々の仕事に追われながら、現在私たちが手にし、私の場合は作り、一方で大量に読む現在の「書物」という形態・性質が、不変のものではないのではないか、という思いをしばらく前から抱くようになった。
それは、インターネット・webの時代を迎え、「メディア」が変容するという現実に直面したからだけではない。
むしろ、私たちが不変の「書物」と思ってきたものが、現在の形になってからそんなに長い歴史を持っているわけでも、不変のものでもなかったのではないかという思いである。もちろん書物は、石や木に書かれた古代から、写本であった中世、グーテンベルグ以降と長い歴史を持っている。しかし、それらは「書物」として、私たちが今日考えているものと、異なった性質を持っていたのだと思う。


「書物」が「メディア」として、今日の「形態・性質」を得たのは、せいぜい19世紀の後半から20世紀の前半。100年あまり前の出来事ではないかという考えにとらわれている。
この仮定が正しいとしたら、私はその約四~五分の一の年月を、「書物」と共に生き、それを作ることに関わってきたことになる。


「書物」という「物」が、書かれる内容(「書」)を規制するのは、当然のことである。卑近な例で言えば、私が携わってきた雑誌の世界でも、「物」が内容を規制する。
見開きページに収めなければならない写真の大きさや枚数・文章量・文章の切れ具合・段落の位置・レイアウト・書体。「見開き」という物理的限界が、それらを決定する。
それが10ページの記事であれば、その限定されたページ数とそれに伴う記事の展開が各見開きを決定する。
さらに1冊の雑誌(ここでもページ数は物理的に規制される)の中の位置、意味づけが、その10ページを規制する。
「(書)・物(この場合は雑誌)」の秩序の中で、内容(「書」)は意味を決定づけられる。


ここで大急ぎで付け加えねばならないが、「書物」の秩序が内包するのは、ここまでで述べた物理的規制のみではない。
印刷技術・製本の仕方・紙質・流通・書物の価格・読者の受用(読まれ方)・作者の意識(書かれ方)などを含んで成り立っている。


この事情は、おそらく近代以降の文学にとっても、同様なはずだ。100年あまり前に「誕生」した近代の書物という形態と不可分に、近代の文学は成立したはずである。「書物」の秩序が、近代「文学」を「誕生」させる。
とすれば、webという、新たな「秩序」は、新たな「文学」を「誕生」させるだろうと予測される。しかし、私の関心はいまそこにはない。

ここ100年あまり続いてきた「書物」の秩序とはなにか。それを子細に見てみたいのだ。このブログを、そのための、読書録として始めようと思う。


「書物史」に関しては、先学の論究が数多くある。それを読み解きながら、「書物」の秩序を考えたいと、思っている(「書物」を解明するために「書物」を読む、という矛盾や限界は、十分に認識している)。
読み進む本は、体系立ってはいかないと思われる。私の関心が、フランス文学、日本の近代文学に偏っているため、取り上げる本もおのずからそうなるに違いない。
いずれにせよ手当たり次第に読みながら、考える作業をしたいと思う。


ひょっとしたら、体系立たず、無秩序にハイパーリンクしていくことが、新たな秩序かも知れないと、ひそかに思いながら書いていきたい。