福沢屋諭吉誕生


福沢が考えたのは、書林の機能であった「出版業と書籍販売業」のうち、出版業を分化して、福沢の手元で行なってしまうというプランだった。
そのためには、版木師や製本師などと福沢が直に交渉し、その職人を押さえてしまう必要があった。
といっても、福沢の言い方をすれば「取付端(とっつきは)がない」(福翁自伝)。


「生涯の中で大きな投機」(前掲書)を行なったのは、この時である。
福沢は、紙を押さえてしまったのだ。


数寄屋町の鹿島という大きな紙問屋に人を遣って、紙の話をして、土佐半紙を百何十俵、代金千両余りの品を一度に買う約束をした。その時に千両の紙というものは実に耳目を驚かす。如何なる大書林といえども、百五十両か二百両の紙を買うのがヤットの話で、ソコへもって来て千両現金、直ぐに渡してやるというのだから、値も安くする、品物も宜い物を寄越すにきまってる。
                   (「福翁自伝」 274p)


こうして、大量の紙を土蔵に積み上げた福沢は、職人を呼び寄せる。
職人は、その紙を見て仰天し、「仕事は永続するに違いない」と信じ、出版のノウハウを福沢(の関係者)に教える。
こうして、書林の手を経ずに、自力での印刷・出版が開始される。


書林にはただ出版物の売り捌きを命じて手数料を取らせるばかりにのことにした
                   (「福翁自伝」 274p)


つまり、江戸期を通じて、未分化であった出版業と書籍販売業を、福沢は独力で分化してしまったのである。
自らベストセラー作家であった福沢は、このことで巨万の富を得る。


この紙購入の時期は、『福翁自伝』を読む限り、いつとは特定できないが、おそらく明治元年から、明治二年に「福沢屋諭吉」が書物問屋仲間に加入するまでの間だと推測される。
長屋正憲は、『福沢屋諭吉の研究』の中で、明治元年秋と比定している。


岩波文庫版『新訂 福翁自伝』所収の年譜によれば、慶応四年(九月に明治に改元)四月慶応義塾を鉄砲洲から新銭座に移転している(前年十二月に三百五十五両で買い受ける)。
長尾によればこの塾の移転に千両、出版自営の運転資金に五百両かけた上に、紙の一括購入千両である。
福沢は、この年八月に幕臣を辞めている(外国方翻訳局・禄高百五十俵)。
彰義隊と官軍との上野戦争は、この年五月。
幕府瓦解の混乱の中で、福沢がこの巨額の資金をどのように集めたのかに関心はわくが、それは本稿の主題とはかかわりがない。


長尾によれば、福沢はこの時期、『訓蒙 窮理図解』『洋兵明鑑』『掌中万国一覧』『英国議事院談』『清英交際始末』『世界国尽』などを出版している。
販売の一部は、尚古堂になっているようだが、長尾の研究を読む限り、詳らかではない。
いずれにせよ、出版業と書籍販売業との分化という、今日の出版・書籍販売の形態に一歩近づけたシステムを取った福沢に、從來の書林は、困惑したに違いない。


福沢諭吉伝』所引の浅倉屋久兵衛談は、福沢のような「素人に勝手に出版されては営業が迷惑であるからいよいよ本業とせらるゝなら本屋仲間に加入」してほしいと本屋側から苦情が出た
                     (「福沢屋諭吉の研究」 230p)


福沢の方も「自分は本屋になったのだから其仲間に入ろう」(前掲書)と加入したとある。


こうして、福沢諭吉の手によって、「近代的」出版業と書籍商の関係の端緒が築かれたことは、特記しておいていい。

*なお、慶応義塾大学のHPに、「福沢屋諭吉」に関する記述があることに気づいた。URLは、以下の通りである。

http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko/fukuzawaya/1.html

書林支配形態


福沢は、何が不満だったのか?
江戸時代の書籍商の形態・権利が、現代の感覚では分かりにくい。
書林支配に関しては、前回、引用した。
再度、検討する。


江戸時代の書籍商=書物問屋は販売だけではなく出版をふつう営んだので、かれらのあいだには、権利概念として、本屋仲間株(営業権)とともに版株・留板株(出版権)があった。
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


つまり、出版業と書籍販売業が未分化のまま、権利として書物問屋に合ったというわけである。

さて、江戸期の出版権である。


本屋仲間が公認された最初は、京都においてである。正徳六年(一七一六=享保元年)のことであった。当時の仲間員数は約二百軒であった。京都の本屋たち、出版物が増加し、本屋商売を営むものがふえてくると、いきおい、すでに他人が出している書物と同じものを印刷して売ったり、一部だけを変えて売り出したりする者が多くなった。寛永以来の京都出版業は、中国渡来の仏書、儒書、医書や歴史書、日本の古典文学の書物など、何でも印刷にしてしまう形で発展した。論語孟子は何種類も売られたし、太平記徒然草も、資力があれば誰が出してもかまわなかった。
                      (「江戸の本屋さん」 75~76p)


江戸の初期、版権に関し、規制が全くと言っていいほどなかったことがわかる。


しかし、『史記評林』『圓機活法』を八尾と小紅屋両方で売り出して、ともに衰えてしまうというような事件がおき、新しい著作物を出版したら、すぐに海賊版を出されてしまうということが重なってくると、本屋たちは何とかしなければと考えるようになった。そこで、他店の書物と同じものを出版することを重版、少し変えただけで出版することを類版と名付け、これは禁止しようと申し合わせをした。その本についての出版の権利を認めあおうというわけである。その権利を板株(いまでいう版権)といい、ある本について板株を所有していることを蔵板といった。大坂の本屋の間でも同じ問題でなやんでいた。そして、京・大坂とも町奉行に請願した結果、元禄十一年に重板類板禁止の町触が出されたのである。
                     (「江戸の本屋さん」 76p)

「重版」ということばの使われ方が現在と異なっているが、いずれにせよ、出版社の権利を保護しようとしている。
ただし、著者の権利は、ない。


 京都の本屋たちは、元禄のころには、内々で仲間を結び、行司(仲間内の世話役、ただし取り締まりの権限を仲間内で認められている)をえらんでいた。ところが、幕府が出版取り締まりの命令を出すとき、とくに念をおして命令を守らせるために、京都本屋仲間の行司を呼んで、それを言いつけるようになった。その最初が、正徳六年(享保元年)なのである。こうなると幕府の命令にそむく者や、重板・類板をやった者は、仲間の制限を公然とうけるようになる。このことはまた板株の公認でもあった。
                     (「江戸の本屋さん」 76p)

       

享保六年、出版取り締まりのため、幕府は書物仲間の設立を命じ、ついで享保七年大岡越前守が、出版条目を出した。
幕府批判の禁止や、好色本の禁止などの他


一、何書物ニよらす此以後新板之物、作者并板元実名奥書ニ為致可申候事                
(「江戸の本屋さん」 74p)

           

とあり、現在にまで続く奥書の規定を取り決めた。
版元の権利は、これ以降、確定したわけである

さて、著者の権利であるが、実際には存在しなかったも同然、と私は考えている。
いま参照する史料が思い浮かばないが、例えば大田南畝山東京伝の場合、ベストセラーを出したときも、版元の蔦屋が吉原で一席設けるくらいで、印税が支払われるようなことはなかったという資料を読んだように記憶している。
最初に著作料を取ったのは、これもうろ覚えの記憶であるが、馬琴だったはずだ。
(いずれにせよ、上記は、地本の場合である。この点、再確認する必要がある)


さて福沢だが、初期の出版物(『西洋事情』初編、『雷銃操法』巻之一)で行われた「書林支配形態」の出版とは、委託出版・販売の形式である。
さきの「江戸の本屋さん」の定義によれば、「蔵板」は、福沢が所有しているのである。
『雷銃操法』巻之一の場合、


福沢の著者=蔵版者としての経費支出は版木代、彫刻料として合計「百五拾四両二朱」があり、入金は『雷銃操法』巻之一の総勘定として九月十七日「七両二分」が記録されている。
            (「福沢屋諭吉の研究」 219p)


正しい比較かどうかは定かでないが、現代でいってみれば、「あなたの原稿を本にします」という自費出版支援の出版社から本を出版しているようなものかもしれない。
これでは、西洋の著作権概念を知り、しかも大ベストセラーを書きつづけていた福沢としては、納得が行かなかったに違いない。
福翁自伝」の「出版物の草稿ができると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、またその製本の紙を買い入るるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられるというのが年来の習慣である。」という怒りも、「高の知れた町人」という罵詈雑言もわからなくはない。



この書林支配形態の出版は、発行分数の少ない(学術的な専門書は多くこれに属した)書目のばあいは、重版・類版の発生にたいし書物問屋仲間が保障するとともに、蔵版者の手間や経費を少なくする利点があるが、福沢の著訳書のように大量販売が可能な書目の場合は、蔵版者に不利な出版形態であった。
            (「福沢屋諭吉の研究」 356p)


そこで福沢が考えたのが、印刷部門を「福沢屋諭吉」が行ない、書林には販売・取次のみをさせるという今日の出版・書籍販売に近い形態への「大変革」であった。
                            (この項つづく)

福沢屋の発端


岩波文庫版「福翁自伝」年譜には、明治二年(1869)の項に



十一月福沢屋諭吉の名で書物問屋に加入し、出版業の自営に着手
                   (「福翁自伝」 340p)


と書かれている。
実際、福沢自身が「福翁自伝」の中で


私が商売に不案内と申しながら、生涯の中で大きな投機のようなことを試みて、首尾よくできたことがあります。
                    (「福翁自伝」 273p)


と述べ、出版業をはじめるいきさつを詳細に語っている。
実際、出版業は、福沢に莫大な利益をもたらした。
明治六年の書簡の中で


出版局は「只今にても一年拾弐・三万両のの商売はいたし、随分インポルタンスな」りといい、また別の書簡(六・七・二四)で「活計は読書翻訳渡世いたし、随分家産も出来、富裕の一事に至りては在官の大臣参議など羨むに足らず」
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


とまで書いている。
福沢が維新政府から一定の距離を置き、再三の御用召を断り、後に勝海舟榎本武揚など維新政府の顯官となった旧幕臣を批判できたのも、この当時、出版によって「大臣参議など羨むに足らず」と豪語できるほど富裕であった経済的背景を考慮に入れておかなくてはならないだろう。


「福沢屋諭吉」としての活動を研究した本に、長尾正憲の「福沢屋諭吉の研究」という労作がある。
幕末、幕府外国方の時期の幕臣・福沢から維新期の「福沢屋諭吉」の時期、その西欧体験を詳述した大部の本である。
私自身は、これまで福沢諭吉に関心を持っていたわけでもなく、その研究史の委細を知らないが、少なくとも福沢の事績に関し、目が洗われるように感じながら読み進んだ。
また、幕末・維新という過渡期の出版・書籍商の近代化過程に、さらにはわが国における著作権の確立に、「福沢屋諭吉」が貢献したことに、注目されてよいと思った。


福翁自伝」の叙述に沿い、また、「福沢屋諭吉の研究」に導かれながら、この間の事情を考えて行きたい。


まず、福沢は出版業をはじめるきっかけについて、次のように語る。


ソレハ幕府時代から著書翻訳を勉めて、その製本売り捌きのことをばすべて書林に任してある。ところが江戸の書林が必ずしも不正の者ばかりでもないが、とかく人を馬鹿にする風がある。出版物の草稿ができると、その版下を書くにも、版木版摺の職人を雇うにも、またその製本の紙を買い入るるにも、すべて書林の引き受けで、その高いも安いも言うがままにして、大本の著訳者は当合扶持を授けられるというのが年来の習慣である。ソコデ私の出版物を見るとなかなか大層なもので、これを人任せにして不利益はわかっている。書林の奴らに何ほどの智恵もありはしない、高の知れた町人だ、何でも一切の権利を取り上げて此方のものにしてやろうと説を定めた。


                    (「福翁自伝」 273p)


「高の知れた町人」、という口吻は、福沢としてはいかがかと思うが、福沢の決意は分かる。
この時期、「西洋事情」初編を慶応二年に出版、ベストセラーとなっていた。
さらに、「雷銃操法」や、「兵士懐中便覧」(慶応四年)「洋兵明鑑」(明治二年)などの戊辰戦争・奥羽戦争にタイムリーな著作・翻訳を矢継ぎ早に行ない、売りに売っている。
福沢が、江戸末期の出版・書籍販売制度と著者・訳者の関係に関心を持つ十分な根拠がある。


では、福沢言う「年来の習慣」とは、なにか?


江戸時代の書籍商=書物問屋は販売だけではなく出版をふつう営んだので、かれらのあいだには、権利概念として、本屋仲間株(営業権)とともに版株・留板株(出版権)があった。さらに、蔵版者が別に存在していて、その委託をうけて書林が出版・販売にあたる場合には、受託出版権として支配株というものがあった。この形式で出版されるばあいを「書林支配形態」の出版というが、福沢の初期翻訳書『西洋事情』初編、『雷銃操法』巻之一などは、江戸の書林尚古堂岡田屋嘉七、誠格堂和泉屋善兵衛などの書林支配で発行された
                   (「福沢屋諭吉の研究」 262p)


ベストセラー作家、福沢は、この形態を打ち破るべく、印刷・出版を自らの手中に収めようと決意する。


その事情を知るためには、「書林支配形態」の出版を、考えなくてはならない。
                              (この項つづく)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)

新訂 福翁自伝 (岩波文庫)



福沢屋諭吉の研究

福沢屋諭吉の研究

情報技術とメディア


アイゼンステインの「印刷革命」は、いうまでもなく、重要な著作である。
その中で、著者は、「ルネサンス」と「宗教改革」を中心に、西欧の「近代化」の意味を問い、それに決定的な影響をあたえたのは「印刷」の発明だったことをあかしていく。
まず、ルネサンスに関して、アイゼンステインは、ルネサンスとそれ以前のカロリング・ルネサンスを始めとする文芸復興との違いについて、次のような設問をする。


イタリア・ルネサンスは、新しく重要なできごととして他とは切り離して考えるに値するある独特の特徴を持っていた。しかし同様のことはカロリンガ朝の復興にも十二世紀の復興にも言えるのである。ではなぜ、十五世紀の復興だけに特別な画期的役割があったとするのであろうか。
                   (「印刷革命」 126p )


アイゼンステインは、テクストの複製・保存の技術、「印刷」が、画期をなしたことを論証する。


 印刷術が登場するまでには、当然のことながら古典の復活は規模も小さく、影響も一時的ものだった。(略)テクストが手書きで写し取られている限り、古典の遺産が存続できるか否かは地域のエリートたちの需要しだいのあぶなっかしいものだった。(略)ペトラルカが桂冠詩人に叙されて後まるまる百年というものは、イタリアにおける学問の復活は、それ以前の復活と同様制限を受けざるを得なかったのである。一方にはいくつかの限られた一時的復活があり、他方にはそれとは異なり、前例のない範囲と規模を持つ永遠のルネサンスがあったことは認めるとしても、ほんとうに新しいパターンが確立したと言えるまでにはペトラルカの後百五十年を待たねばならない。
                   (「印刷革命」 132〜134p )


ペトラルカからヴァッラに至る初期の人文主義者が文化の担い手としての生き生きとした評価をいまだに受けているのは、無味乾燥な印刷術がもたらした情報産業に負うところが大きいことを忘れてはならない。彼らの仕事が終わったあと、連続性と漸増する変化をもたらすこの新しい技術が生まれなかったなら、彼らが現在、歴史に残る学問の創始者と呼ばれることもなかっただろう。もっと昔の学者たちはその点では運が悪かった。
                   (「印刷革命」 155p )


一方、宗教改革に関しては、印刷術の重要性はあらためて言うまでもないだろう。
もしこの技術がなければ、ヴィッテンベルクの教会の扉に貼られた一枚の紙片にすぎないルターの「九十五箇条の堤題」が、短期間のうちに中部ヨーロッパ全体に伝わることなどありえなかったはずだ。
しかし、アイゼンステインは、さらに次のように指摘する。


中世のヴルガータ聖書を時代遅れなものにし、大衆市場を開拓する新たな活力をもたらしたのは、印刷術であって、プロテスタンティズムではなかった。ヴィッテンベルクやチューリッヒで起きた事件にかかわりなく、また、ルターやツウィングリ、カルヴァンがつきつけた他の問題とも無関係に、遅かれ早かれ教会は、一つには聖書写本の編纂及び三ヵ国語の学識が、書籍市場の拡大が、聖書に与えた影響を甘受せざるを得なかっただろう。ルター派の異端が広まろうと広まるまいと、聖職者の悪弊が改革されようとされまいと、印刷機によって解放された力は、もっと民主的で民族的な礼拝を目指しており、制御できなければその道に走るにまかせる以外に方法はなかったと思われる。


                   (「印刷革命」 170p )


これらの論述は、妥当だと思う。
しかし、一つ危惧を感じる。それは、テクノロジーが開発されれば、それに伴いいかなる場所でも、必然的に、文化の位相が変化するというロジックを生みだしかねないことだ。
水越伸は、近著「コミュナルなケータイ」の中で指摘する。


情報技術は、メディアを構成する基盤となる要素だが、メディアとは異なる概念としてとらえた方が有効であろう、メディアは情報技術を重要な要因としてはらみながらも、国家や資本の論理、そのメディアが導入される国や社会の歴史的、地理的文脈などの社会的要因に規定されながら生成されていくのである。そしてテクノ・メディアの類の言説は、メディアの普及を促進したり、阻害する媒介となったりする。
 もう一つのポイントは、メディアが歴史的、地理的文脈を持った具体的な社会の中に投げ込まれ、それらの文脈に沿ったかたちで、すなわちその社会に相対的に特有な編み目にしたがって発現するという考え方だ。ここでクローズアップされるのは情報技術ではなく、社会と、そこに生きる人間である。僕たちは日々の生活を生きる中でさまざまなメディアを活用しているのであって、かつてのマスコミュニケーション研究が前提にしたように、テレビの視聴者や新聞の読者など、メディアのインパクトを受ける受け手という断片的なかたちで存在しているわけではない。
 たとえば同じ世代の技術規格を用いても、同じメーカーが作った移動体技術であっても、国や地域がちがえばその社会的なありようはちがっている。
                   (「コミュナルなケータイ」 47〜48p )


アイゼンステイン自身、こうした点は理解していた思われる。


印刷機は)もし違う文化的土壌に置かれていたならば、同じ技術も違った目的に使用されていたかもしれないし(中国や朝鮮の例)、あるいは歓迎されざるものとして、全く使用されなかったかもしれない(ヨーロッパ以外の土地で、宣教師が持って行った印刷機がまっ先に据えつけられたところはたいていそうだった)。


                   (「印刷革命」 170p )


たしかにヨーロッパ近代は、この技術によって始まった。
このことは、否定のしようがない。
しかし、技術がすべてを決定するわけではない。
このことも、否定のしようがない。

印刷革命

印刷革命

コミュナルなケータイ―モバイル・メディア社会を編みかえる

コミュナルなケータイ―モバイル・メディア社会を編みかえる

粉挽屋について


メノッキオのことを考えていて、粉挽屋という職業の特異性を思った。

必要があって、鏡リュウジの魔女入門」を読んでいたのだが、その中の、以下の記述が気にかかったのである。


民間伝承では、粉ひき小屋は悪魔や魔女と関連付けられている。水車の機械仕掛けとその性能に悪魔的なものを見たのだろうともいわれている。
           (「鏡リュウジの魔女入門」 026p )


一般向けに書かれた本だから、この場合の「民間伝承」がいつを指すのかは不明だが、粉挽屋は、中世の村落共同体の中で、特別な位置を占めていたらしい。


たとえば、「ヨーロッパ中世の城の生活」の中で、粉挽屋は、次のように書かれている<


という類いの話を日常的にもらし、二度異端審問にかけられ、処刑される。
ギンズブルグは、古文書の中から見出した裁判記録を追い、メノッキオの思考を明らかにしていく。


職人たちの中で最も裕福で、最も嫌われたのは粉屋である。粉屋は領主に免許料を支払い、厳密な独占事業であった粉挽き所の運営権を手にしていたのだ。村人は穀物を粉挽き所に運び、穀物の一六分の一〜二四分の一にあたる「使用料」を粉屋に支払わなければならなかった。穀物を計るのは粉屋だったから、当然不正計測の疑惑がかけられることになる。さらに、良質の穀物を粗悪なものと取り替えるという非難にも晒された。中世のジョークにこんなものがある。「世の中で一番勇気のあるものは何?」答えは「粉屋のシャツ。毎日盗人の首根っこを押さえているから」。
       (「中世ヨーロッパの城の生活」 202p )


ギンズブルグ自身も、こうした粉挽屋と農民の間のステレオタイプの敵対関係を指摘している。


しかし一方で、メノッキオに関していえば、ウリフリ地方の小さな村ので、特に排除されていたようには、ギンズバーグの伝える裁判記録からはうかがえない。


ギンズバーグは、粉挽屋に関し、以下のように書いている。


 産業化が始まる以前のヨーロッパにおいて、コミュニケーション手段のほとんど発展していないことが、少なくとも水車小屋や風車小屋を、人の集るごく小さな中心たる場にしていた。それゆえ粉挽屋という職業は非常に広範にみられた。中世の異端の諸宗派のなかに粉挽屋が数多く含まれ、さらに再洗礼派のうちにとくに多く存在していたことは、従って驚くにはあたらないことなのである。しかし、十六世紀の中頃に、先にみたアンドレア・デ・ベルガモのような風刺詩人が「本物の粉挽屋は半分はルター派」だと主張したとき、かれはそれよりももっと特殊なある結びつきをほのめかしていたように思われる。
       (「チーズとうじ虫」 240〜241p )


さらに


 自分たちの小麦を挽かせるために、「柔らかく泥っぽい田舎の騾馬の小水で湿っている地面」(こう言っているのはいつもながらのアンドレア・デ・ベルガモである)の、風車小屋の戸口に立った農民たちは、沢山のことを語っていたであろう! そして粉挽屋も自分の意見を言った。(中略)かれらの仕事の置かれている状況そのものが、旅籠屋や遍歴の職人などと同じように、新しい思想に開かれ、それを広めるような傾向をもった職業集団をなしていた。そのうえ、一般に村の外に位置していて、人びとの無遠慮なまなざしの届かない風車小屋は、秘密裡の人びとの集りの場としても最適であった。
         (「チーズとうじ虫」 242p )


ヨーロッパ中世の民間伝承や迷信について詳しい人には、「粉挽屋」という職業の特殊性は常識の範囲なのだろう。
粉挽屋は、当時としては最新のテクノロジーを駆使し、知識の無い大衆にとってはいつも騙されているのではと危惧しなくてはならない、民衆の中の<知識人>であったかもしれない。


書物の話からは、かけ離れてしまうが、ヨーロッパ中世から、ルネッサンス期にかけての心覚えとしておく。

鏡リュウジの魔女入門

鏡リュウジの魔女入門

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

中世ヨーロッパの城の生活 (講談社学術文庫)

読書のもたらしたもの


カルロ・ギンズブルグの「チーズとうじ虫」は、書物史の文献リストに、必ずといっていいほど記載されている。
私自身は、ギンズブルグのよい読者ではなく、「夜の合戦」も「闇の歴史―サバトの解読」も部屋に積まれているだけである。


すでに、このブログでは香内三郎の『「読者」の誕生』を手引きとしながら、印刷され、流布する「聖書」に自由な解釈を加えることで、「読者」が成立する過程を考えた。
ギンズブルグの「チーズとうじ虫」は、この過程を、ドメニコ・スカンデッラ(通称メノッキオ)という、16世紀イタリアの粉挽屋を通して解明している。


メノッキオは、


私が考え信じているのは、すべてはカオスである。すなわち、土、空気、水、火、などこれらの全体はカオスである。この全体は次第に塊りになっていった。ちょうど牛乳のなかからチーズの塊ができ、そこからうじ虫があらわれてくるように、このうじ虫のように出現してくるものが天使たちなのだ。
                   (「チーズとうじ虫」 41p )


という類いの話を日常的にもらし、二度異端審問にかけられ、処刑される。
ギンズブルグは、古文書の中から見出した裁判記録を追い、メノッキオの思考を明らかにしていく。


その思考は、二つの要素から成り立っていたというのが、ギンズブルグがこの本で明らかにしようとしていることだ。
最初の要素は、読書。
メノッキオの読んでいた書物の完全なリストは失われてしまっているが、ギンズブルグがあげているのは、俗語訳の『聖書』『聖書の略述記』『聖母の練磨』『諸聖人伝』『ジュディチオの物語』『マンドヴィルのツェンネの騎士』『ザンポロ』という題の書物、『年代記補遺』『ペサロの都市の有名な博士マリノ・カミロ・デ・レオナルディがイタリア式の計算にもとづき編んだ暦』、無削除版の『デカメロン』おそらくは『コーラン』。


メノッキオは、これらの本のあるものを「ヴェネツィアで二スウで買いました」(83p)と言っているが、その大半を借りている。
これらの読書から、引き出された思考が、先の「チーズとうじ虫」の汎神論的な思考なのである。


ギンズブルグは、そのイメージや思考を、メノッキオはイタリア・フリウリ地方の口頭伝承文化に淵源を求める。
メノッキオの思考の二つ目の要素である。


この全く異なる文化が白日のもとにひき出されるためには、宗教改革と印刷術の普及とが必要であった。宗教改革のおかげで、たんなる粉挽屋が自分の言葉を語ろうと考えることができ、ローマ教会や世界についてのかれ自身の意見をのべようと考えることができたのである。印刷術の普及のおかげで、かれのもとでふつふつと沸き立っていたこの世界についてのぼんやりとよく整理されていないヴィジョンを表現しようとして利用されることになる言葉をもったのである。
                   (「チーズとうじ虫」 134p )


ギンズブルグは「抑揚をうばいとられた頁の上に結晶化された言語から、口頭伝承の文化の身振りやうなり声や叫び声で区切られた言語を分離させる測り知ることもできぬほど大きな距りをこえる歴史的飛躍を、最初の人間として体験」すると書く。


いずれにしろ、印刷術によってもたらされた「読書」は、オーソドックスなキリスト教的思考を読者にもたらしたのではなく、「読書」が本来持っている想像力を飛翔させる巨大な力によって、メノッキオの場合は、前・キリスト教的思考を呼び覚ましたらしい。


私には、メノッキオのケースが、ヨーロッパ16世紀の人びとの思考の類型かどうかは、わからない。
少なくとも、オーソドックスな「西欧」の言葉で追究する異端審問官と、メノッキオの言葉は交錯しない。
しかし、メノッキオのイメージの豊潤さは、オーソドックスな「西欧」とは異なり、「中世」的な魅力に充ちている。
「私たちは生まれたときにすでに洗礼を授かっていると思う」(62p)というメノッキオの言葉に、私は、奇妙な話だが「如来蔵思想」や「天台本覚論」にも通ずる「神秘主義」の匂いさえ感じた。


「西欧」とは、なにか?
読書史や書物史よりも、そんなことを考えざるを得ない。


チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

チーズとうじ虫―16世紀の一粉挽屋の世界像

活字本の増刷方法


個人的なことだが、出版社に勤務して30年になるが、活版の本を作ったことがない。
すでに活版印刷が、事実上滅びている現状を考えれば、これからも作ることはないだろう。
主にグラビア、一時期オフの雑誌を作ることで、糊口の資を得てきた。
活版印刷に関しての知識は、素人も同然である。



江戸期の古活字本を考えながら、古活字本は印刷の後、開版してしまうため「板」が残らないという中野三敏の発言に引っかかっていた。
「古」活字本以外の、活版印刷は、どのように増刷・重版してきたのか?
重版が、「業として」の出版に収益をもたらす最重要の方法であるのだから、整版から活版への変遷にとって、この問題はポイントになると思われた。


凸版印刷印刷博物館に行く機会があった。
小石川に凸版のビルができた時、お披露目に呼ばれて以来のことである。
そのミュージアムショップで、岩波ジュニア新書「本ができるまで」を買い、疑問が氷解した。
刷版の工程について


部数が少ないものなどは、活字原版をそのまま印刷機に組み付ける原版刷りという方法がとられることがあります。
 これは、活字の姿をもっとも忠実に再現する方法です。しかし、活字は印刷時の圧力ですり減るため、大体四〇〇〇部から五〇〇〇部までが原版刷りの限界といわれています。
                   (「カラー版 本ができるまで」 98p )

古活字本の印刷は、もちろん原版刷りであったはずである。
田中優子の「キリシタン版は一点一五〇〇部印刷できたというが、恐らくそれが活字印刷の限度」という言葉は、すでに引用してきた。
最近の技術で「四〇〇〇〜五〇〇〇部」というのと比較すれば、恐らく妥当な推測であろう。


 原版刷りはむしろ例外的な方法で、通常はここで活字原版を用いた刷版の工程になります。日本の印刷会社で一般的なのは、活字原版から紙型をとり、その紙型に融合した鉛合金を流し込んで鉛版という刷版を作る方法です。という方法がとられることがあります。
 紙型は、水分をふくんだ特殊なやわらかい紙に活字をめりこませた後、熱プレスで乾燥するという方法をとっていました
                  (「カラー版 本ができるまで」 98〜100p )


紙型(しけい)について、より詳しい説明は、ウィキペディアの以下のURLにある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E5%9E%8B


要は、印刷に際し、紙型から刷版を作る。
原版は、開版してしまう。
印刷所はこの紙型を保存しておき、重版時にこの紙型からもう一度、刷版(鉛版)を作り、文字直し等はこの鉛版の「訂正箇所を切り取って正しく組版したものをはめ込む(前掲 ウィキペディアより)」。
この鉛版で、重版を行なうわけだ。


大日本印刷の私より年齢が上の方にうかがったところ、その方の若い頃(30年程度前)は、「紙方」があったという。
岩波の前掲書によれば、


 折ることも重ねることもできない紙型が年々増えていくと、印刷所にとってはこれを保管するスペースを確保することが、大きな負担となっていきました。
                 (「カラー版 本ができるまで」 100〜101p )


と書かれている。


残る疑問は、この方法は、いつから行われるようになったのか?
「日本の印刷会社で一般的」という記述から考えて、ヨーロッパでもこの方法が行われているのかという、2点である。

カラー版 本ができるまで (岩波ジュニア新書 440)

カラー版 本ができるまで (岩波ジュニア新書 440)