野性の精神は全体化する

 相当に刺激的な本である。
 私たちが自明に考えている「思考のパターン」やそもそも「思考する」こと自体が、文字あるいは「書くと言う技術」に根ざしていると、「声の文化」との対比の中で明かされて行く。
 「書くと言う技術」を持っていることは、かなり特別なことらしい。

 これまでに、人間の歴史のなかで人の口にのぼったことのある何千という――ひょっとして何万かもしれないが――言語すべてのうちで、文学をうみだすほど書くことに憂き身をやつした言語は、わずかに百六にすぎないほどである。今日実際に話されているおよそ三千の言語のうち、文学をもっている言語はたったの七十八である。(Edmonson 1971,pp.323,332)いったいいくつの言語が、書かれるようになるまえに、消滅したり、変質して他言語になったりしたか、いまのところ数えようがない。活発に用いられていながら全然書かれることのない言語が、現在でも何百とある。
                        声の文化と文字の文化 24p


 発話さえれることばは、瞬く間に消えてしまう。
こうした世界では、思考は、どのように行われるのか?

 声の文化のなかでいきる人が、ある一つの複雑な問題を考えぬこうと決心し、とうとう一つの解答を何とか表現できたとしよう。そして、その解答自身もわりに複雑で、たとえば、二、三百語でできているとしよう。この人は、こんなに骨身をけずって練りあげた言語表現を、あとで思い出せるように、どうやって記憶にたくわえておくのだろうか。どんな書かれたものもないのだから、この思索者のそとには、もう一度おなじ思考の流れを再現したり、また、再現したかどうかを検証したりするのにさえ、たすけになるどんなものも、どんなテクストもない。刻みをいれた棒とか、注意ぶかく並べられた事物のような忘備録 aides-mémoireも、それだけでは、複雑な言明の流れを再生させることはできない。実際のところ、そもそも最初に、ながい分析的な解答が組み立てられうるのはどのようにしてなのだろうか。そこには、話の相手が、ほとんど必須である。なぜなら、たてつづけに何時間もひとりごとを言いつづけるのはむずかしいからである。声の文化においては、[つねに]人とのコミュニケーションと結びついている。

                         前掲書 77〜78p


 なるほど、ソクラテス孔子も対話のなかでしか、思考を深めることができなかった。
 ソクラテスプラトン孔子は、すでに文字・「書く技術」の世界に生きていたが、依然、「声の文化」の色濃い影響下にあったはずである。書くことは、たとえば平板な羊皮紙や竹簡など「筆記されるもの」と、何らかのインク・墨、鵞ペン・筆などを常に用意しなくてはならない。
 ちょっとメモ書きなどというわけには行かなかったはずである。
 さらに言えば、「声の文化」の影響が長く残ったことは、すでにこのブログで、「音読」を考えることで、確認している。

 しかし、思考を刺激し、確認してくれる聞き手がたとえいたとしても、その思考の断片や切れはしがメモにはしり書きされるように残るわけではない。いったいどうやって、苦労して考え出したものを精神に呼び戻すことができるのか。答えは一つ。記憶できるような思考を思考することである。

                           前掲書78p


奇をてらった言い方をすれば、「声の文化」に生きた人は、「書く技術」を持った私たちのするような思考はできなかった。
正確に言えば、私たちのようなやり方での思考をする必要はなかった、ということだろう。

一次的な声の文化では、よく考えて言い表された思考を記憶にとどめ、それを再現するという問題を効果的に解くためには、すぐに口に出るようにつくられた記憶しやすい型にもとづいた思考をしなくてはならない。このような思考は、つぎのようなしかたで口に出されなければならない。すなわち、強いリズムがあって均衡がとれている型にしたがったり、反復とか対句を用いたり、頭韻や母音韻をふんだり、[あだ名のような]形容詞句を冠したり、その他のきまり文句的な表現を用いたり、紋切り型のテーマ(集会、食事、決闘、英雄の助太刀、など)ごとにきまっている話し方にしたがったり、だれもが耳にしているために難なく思い出せ、それ自体も、記憶しやすく、思いだしやすいように型にはまっていることわざを援用したり、あるいは、その他の記憶をたすける形式にしたがったりすることである。まじめな思考も、記憶のシステムと織り合わされている。記憶をたすけるという必要が、統語法さえも決定するのである。

                        前掲書78p


このことが、ホメロスを例に考証される。ホメロスの詩においては、「語や語形の選択が、([文字にたよらず]口頭で組み立てられる)六脚韻 hexameter の詩行という形態に左右されている」(p49)。
 さらにその語彙は、きまり文句の組み合わせによっている。
「『イリアス』と『オデュッセイア』に使われていることばのうち、きまり文句formula の一部でないもの、それも、一目みて多少ともそれとわかるようなきまり文句の一部でないものは、ほんのわずかにすぎない」(55p)



 つまり、思考するためには、常套的な言い回しを用い、それを記憶するためには韻をきちんと踏むことで、覚えやすくする必要があった。ホメロスは、これらを組み合わせる天才だったわけだ。


 ここで思われるのは、日本古代歌謡である。
 たかだか、「長い」という言葉を言うために、山の枕詞「あしびき」と述べ、さらに序詞「山鳥の尾のしだり尾の」などというのか?
 また、単純な地名、たとえば「初瀬」を言うために、わざわざ「隠国 こもりく」等という枕詞を付けなくてはならなかったのか?
 それは、ホメロスが「賢明なるネストール」とか「知謀に豊かなオデュッセウス」と「形容詞的きまり文句」を「義務的に固定化」(87p)と同様な思考法なのかもしれない。
 長い間、素朴な疑問として感じていたことの手がかりが、得られたように思う。
 またそれを記憶するために、日本古代の歌謡は、音数律を活用したといえる。



「野性の精神は全体化する」(88p)
この引用が、レヴィ=ストロースの意図にあっているかどうかはともかく、そのようである。


声の文化と文字の文化

声の文化と文字の文化

後白河法皇

 絵巻の読者を考える場合、いうまでもなく時代的変遷を考慮に入れなくてはならない。
 その発生期、一〇世紀末といわれている時点では、前回引用した武者小路穣の指摘によれば、『後宮や高位の貴族の邸内奥深くのごく限られたもの』であった。
 この時期、『伊勢物語絵巻』『竹取物語絵巻』『宇津保物語絵巻』などが存在したと『源氏物語』に書かれている。
 しかし、これらはおそらく、後の『信貴山縁起』『伴大納言絵巻』などとは、趣が異なっていたのではないだろうか?

竹取物語』ぐらいの長さになれば、もうすべての場面を絵画化することは考えられない。まして『宇津保物語』のような大長編の全編絵画化は、物質的にもむりな話である。              
                        (「絵巻の歴史」 20p )

 つまり、後の説話絵巻が絵巻を見ていくことで、物語を「読む」形式であるのに対し、発生期の絵巻は読者の側に共通認識として「物語が先ずあって、その中の一場面が、物語絵として描かれた」 (「絵巻の歴史」 24p )と推測されるのである。

源氏物語絵巻」の中に「東屋」という場面がありますが、ここでは浮舟が絵を眺めている傍らに女房の右近が侍って詞書を読んであげています。このように身分の高い人が絵巻を見るときは、詞書を読むお付の人がいたようです。              
                      (「絵巻を読み解く」 167p )


物語のある一場面の絵があり、それに添えられた和歌を読むように、お付の人が詞書を読んだのではないかと想像している。


一方、説話物語は、異なった構造で作られている。
信貴山縁起』も『伴大納言絵巻』も解釈は分かれるとしても、本来の説話を全く知らない私たちでも、話の筋はたどれる。
物語として完結しているのである。
後宮や高位の貴族の邸内奥深く』住む人ではない読者と、「読む」という行為を想定せざるを得ない


五味文彦は『鳥獣人物戯画』の読者(文字はないが、一応読者とする)について、以下のように述べている。

 読み手としては寺院の童が考えられる。絵巻の丙巻の奥書には「秘蔵秘蔵絵本也」とあって、「建長五年5月日 竹丸(花押)」の記載が見える。これは竹丸が所持していたことを示すものと考えられるが、この竹丸とは寺院の童であろう。
 寺院には童が多くおり、いろんな教育を受けていた。             
                      (「絵巻で読む中世」 034p )

だから覚猷のような絵に覚えのある僧が、童の楽しみのためにこの絵巻を描いたことは十分に考えられる。南北朝時代に作成された『後三年合戦絵詞』はその序で「児童幼学のこころをすすめて、讚仰の窓中、時々是を披て永日閑夜の寂寞をなぐさめ」としるしており、児童幼学のためにもこれを作成するのである、と特に述べている。            
                      (「絵巻で読む中世」 035p )

「絵巻」が、「児童幼学」のような、全く始めて「読む」読者にも理解できるように変質して行ったのがうかがえる。

五味は「『古今著聞集』は、作者の橘成季が絵巻に描くための話を集めた(022P)」ことを指摘している。

院政期、これらの説話物語は、一つの頂点を極める。
特に後白河法皇は、マニアといえるかもしれない。
『年中行事絵巻』を作らせたのは後白河であるし、『伴大納言絵巻』も、後白河院の時代のもののようだ。
五味は『伴大納言絵巻』について、「長寛二年(一一六四)に平清盛後白河院のために造進した蓮華王院の宝蔵に納められていたようだ」(088P)と書いている。


「今様」を愛し、「梁塵秘抄」をまとめたくらいの文化的パトロンが、「絵巻」好きであってもおかしくはないが、『古今著聞集』四〇〇段の次の話が、気になっている。

右大将頼朝、ご宝蔵の絵を拝見せざること

 東大寺ご供養の時、鎌倉の右大将上洛ありけるに、法皇より法蔵の御絵ども取り出されて、関東にはありがたくこそ侍らめ、見らるべきよし仰せ遣はせらたりけるを、幕下申されるは、「君の御秘蔵候ふ御物に、いかでか頼朝が眼をあて候ふべき」とて、恐れをなして一見もせで返上せられにければ、法皇はいらんずらんと思しめしたりけるに、存外に思しめされける。       
            (新潮日本古典集成「古今著聞集 下」 四三頁)

 

古典集成の注によれば、建久元年の頼朝上洛のエピソードのようだが、この年、頼朝は後白河から権大納言に任ずるとされたが辞退している。
秘蔵の宝を見せる、あるいはあたえる、という行為が、権力の上下関係を決定づけたのかもしれない。
五味は、頼朝が「見たならば、後白河に従うことになる、と直感したのではないか(062P)」と書いている。


後白河は、優れた絵巻を描かせ、それをごく少数の人に見ることを許す。
宝蔵の中のものは、「王権」の象徴であったのかもしれない。
としたら、それらは秘されなくては、ならなかったのである。


絵巻を読み解く (美術館へ行こう)

絵巻を読み解く (美術館へ行こう)



絵巻で読む中世 (ちくま学芸文庫)

絵巻で読む中世 (ちくま学芸文庫)


古今著聞集〈下〉 (新潮日本古典集成)

古今著聞集〈下〉 (新潮日本古典集成)

『信貴山縁起』・読者についての疑問


 中世の日本の文学に関して、あるいは美術に関しても、さらには社会史・歴史に関しても、通り一遍の知識しか持っていない。
 この稿で覚え書きとして記しておきたいのは、このところ気にかかってしかたない疑問に関してである。
 追々解決して行ければといい、という目論見にすぎない。


 最初に疑問がわいたのは、『信貴山縁起』に関してである。
 言うまでもなく説話絵巻の代表作であり、その絵画の素晴らしさと独自性は、群を抜いている。
 無論、国宝である。


 しかしながら、この絵巻は、誰に、どのように読まれてきたのだろうか?


 まず、『絵巻』一般の読まれ方を考えてみなくてはならない。
 武者小路穣は、『絵巻の歴史』の中で『信貴山縁起』について以下のように述べている。

紙を横につないだ巻子の長さと、それを少しずつくりひろげていくという観賞法をこれほどまでに効果的に利用して、しだいに転換していく舞台の上で自由に登場人物を活動させ、説話の展開を流れのままに表現しえたことは、先行する中国の図巻にも、日本のそれまでの絵画にもみなかったところである。同じように鑑賞者が膝の前にちょうど両手をひかえたくらい――約五ー六〇センチメートル幅でひろげて見ていくといっても、物語絵巻の場合には、詞書を、そして絵画をと、一段また一段とくりひろげて、ある場面からまったくちがった次の場面へと移っていくのだが、ここでは少しずつ巻物をくりながら画面をずらしていくのにつれて、回り舞台のように背景がしだいに転換し、自然に時間も移り変わっていく。
                   (「絵巻の歴史」 62p )

 

 つまり、絵巻は今日の本同様、ひとりが読むためのメディアであったことは、確実である。
 複数の人が同時に拝観したり、あるいは教化のための説法に使ったりできるものではない。


 であるならば、誰がこの絵巻を受容したのか?
 オリジナルは、当然、一部しかない。模本、写本が作られたかもしれないが、もとより今日伝わっている「国宝」級のレベルに達したとは思えない。(ちなみに先日、NHKハイビジョンで見た『鳥獣戯画』の模本は、絵が著しく稚拙だった。)


 そもそも、古代末(平安後期)から中世(鎌倉期)において、絵をかくことは簡単なことではなかった。
 武者小路は前掲書の中で、「彩色画ということになると、良質の胡粉、朱、群青、同黄などの絵具は、いずれも海外から舶載の高価なものであり(19p)」、と述べている。
 『信貴山縁起』は、彩色されていた。
 私見にすぎないが、多数の模本が作られたとは思えない。


 一方、武者小路は、それ以前の『源氏物語絵巻』などの物語絵は、「後宮や高位の貴族の邸内奥深くのごく限られたものだったはずである(20p)」とも書いている。


 「信貴山縁起」にもどって考えてみると、この絵巻の内容は「説話」を伝えるとともに、信貴山の霊験功徳を伝えるもののように思える。
 最初に読んだ時、寺の「パブリシティ」なのかという印象さえ持った。


 この感想が妥当かどうかは置くとしても、ごく少数の人に読まれるのでは意味がないのではないか、と感じたのである。それが、疑問のきっかけであった。


 一方で、高位のごく少数の人の「支援」を得られれば目的が達せられるなら、オリジナルを都の貴族の間で回し読みすればすんだのだろう。
 時代が大きく違って比較になるかどうかわからないが、江戸初期の「嵯峨本」(古活字本)ですら、ごく少部数が作られたにすぎない。
 京都の貴族階級の閉鎖社会の需要に応えれば、よかったということも考えられる。


 いずれにせよ、日本の中世期の「読書」のあり方、書物はどのように受容されたかについて、思いめぐらしている。



絵巻の歴史 (日本歴史叢書)

絵巻の歴史 (日本歴史叢書)

遍歴する職人たち


 実は10日あまり前から、ルネッサンス期の印刷職人を主人公にした、この魅力的な歴史小説「消えた印刷職人」を手に、なにを書こうかと思い悩んでいる。
 高宮利行他著の「本と人の歴史事典」を拾い読みしたり、エズデイルの「西洋の書物」を読み出したりしていた。

 小説の筋立て自体は、興味深く、1545年から1595年までの、アベル・リブリという印刷職人の半生を描いている。
 彼は、ジュネーブ・リヨン・バーゼルハイデルベルク・スダンの町を、遍歴する。
 アベル・リブリは実在したようだが、乏しい十六世紀の史料を元に、ベルギーの歴史家ジャン=フロンソワ・ジルモンが(アナグラムの筆名を使って)、想像力をつくし小説にまとめたものだ。

 ここで、筋を追ったりするつもりはない。
 
 初期の印刷工房の零細さ、遍歴する職人たち、宗教戦争期の不安など、散文で知っていたものを、小説の形で追体験できるわけで、その世界に浸ればよい。
 特に、新教の街・ジュネーブの息苦しさは、何と思ったらいいのだろう。

 若干の疑問は、遍歴する地域が、フランス語圏とドイツ語圏にまたがっていることだ。
 印刷工にかかわらず、遍歴する職人たちは、バイリンガルだったのだろうか?

 いまひとつは、印刷工房の零細さが描かれるが、この時期、印刷工房のみが零細だったわけではあるまい。この時期の産業の全体像を考える必要があると思う。ただし、印刷術がこの当時の、ハイ・テクノロジーであったことは、留意する必要がある。

消えた印刷職人―活字文化の揺籃期を生きた男の生涯

消えた印刷職人―活字文化の揺籃期を生きた男の生涯

アッティクス

岩波文庫版「キケロー書簡集」解説によれば、今日私たちが読むことのできるキケロの書簡のうち、「アッティクス宛書簡集」としてしてまとめられているものは426通におよぶ。
ルネッサンス期にペトラルカが、その発見に尽力したのだが、いずれにせよ紀元前に書かれた手紙を、これだけまとまった形で読めること自体が、驚異ではある。


さて、このアッティクスという人物である。


塩野七生は、『ローマ人の物語第五巻・文庫版12』で、キケロとアッティクスの親密な関係について、かなりのページを割いている。

アッティクス(アッティカ人)とは、彼のギリシア文化への傾倒から生まれた綽名で、本名はティトゥス・ポンポニウスという。(中略)政治に情熱をもちつづけたキケロとはちがって、アッティクスは、政治にはいっさいかかわらない生涯を送る。親の遺した豊かな財産を、金融業や剣闘士育成業や出版業などに巧みに投資した結果、経済人として大成していた。        「ローマ人の物語」・新潮文庫版12 p31

アッティクスは、キケロの著作を出版していたのである。
たとえば、キケロの書簡中の随所に、それをうかがわせる記述がある。

九月三十日、わたしは大祭官たちの前で、これについて弁論を張り、(中略)従ってこれは、われわれの若いジェネレーションのためを思えば、そのまま借りにしてはおかれない[出版せずにはいられない]と思う。君は別にほしくはないかも知れないが、いずれ近いうちにその原稿をお送りする。       
        『世界文学大系67』・筑摩書房 p219 昭和41年発行 泉井久之助
        紀元前57年10月の書簡

 わたしの弁論術に関する書物については、ずいぶん念を入れて書いて来た。長い間、努力をかけたが、もうコピーにかけてもらっていいと思う。      
        『世界文学大系67』・筑摩書房 p271 
        紀元前55年の書簡


著作の売り込みや出版許可など、これらの書簡は、まるで現在、著者が出版社にに宛てたものといっても見まがうほどである。


出版は、どのように行われていたのだろうか。
やはりキケロのアッティクス宛て書簡に以下のような一節がある。

『リーガリウス弁護』を君は盛大に売り込んでくれた。今後は書いたものはすべて、君に宣伝を頼むことにしよう。      
        『キケロー書簡集』・岩波文庫 p403 
        紀元前45年6月23日の書簡

岩波文庫版のこの文章への注に「アッティクスは、そのリガーリウス弁護論を賞賛し、おそらく朗読会を開いたのであろう」と記されている。


箕輪成男は、『パピルスが伝えた文明』の中で、古代ローマで本が作られるまでの、流れについて詳述している。

 先ず新しい作品は、最初は友人仲間に、そして後には一般大衆に向って、著者が朗読することによって発表される。(中略)そうして朗読会は、著者と公衆を結ぶ、最も直接的な接触であり、著者にとって大変重要な刺激となり可能性を持っていた。作品の成功度をはかる一種の文学的バロメーターといってよい。      
        『パピルスが伝えた文明』 p151

この朗読会は、箕輪によれば「帝政ローマで大変人気を呼んだ」と書かれているから、これは推測にすぎないが、あるいは共和制末期のキケロ・アッティクスの試みは、その先駆で「盛大に売り込む」効果があったのかもしれない。


しかし朗読会で、口頭で公表しても、これは「発表」であって、出版とは言えない。
原稿を複数作り、販売する必要がある。
キケロが、先の引用で書いている通り「コピー」しなくてはならないのだ。
そして、印刷術以前のこの時期、その方法は「筆写」しかなかった。

(ブルートゥスは)、『リーガリウス弁護』の中でルーキウス・コルフィディウスの名が挙げられているのは私の間違いであると知らせてくれた。(中略)だから、お願いだ、パルナケース、アンタエウス、サルウィウスに彼の名前をすべての写本から取り除くように言いつけてもらいたい。      
        『キケロー書簡集』・岩波文庫 p411 
        紀元前45年7月28日(?)の書簡

やはりキケロが、アッティクスに宛てた書簡だが、入稿後に間違いに気づき訂正を求めている。
重要なのは、バルナケース以下の3人の名前である。
岩波版の注には、「三人ともアッティクスの奴隷あるいは解放奴隷で、筆者の仕事も担当していた者たち」とある。
つまり、「コピー」を行なっていたのは、この時期「奴隷」あるいは「解放奴隷」であった。


一体、どれくらいの部数がこの方法で「出版」されたのかは推測の域を出ないが、数十部から数百部であったと思う。
すでに書いた通り、書店があったにせよ、基本は「オン・デマンド」に近い形だったのではないか。
そうでなければ、いくら奴隷をつかうにせよ「業」としての出版は成り立たないのではなかろうか?
奴隷にしても、識字できる教養のある奴隷は、大変高価であったと思われる。
塩野は前掲書で奴隷について触れ、家庭教師とつかわれたギリシア人奴隷の貴重さについて述べている。

いずれにせよ、こうした形でおそらく「ガリア戦記」も出版されたに違いない。


ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫)

ローマ人の物語 (12) ユリウス・カエサル ルビコン以後(中) (新潮文庫)



キケロー書簡集 (岩波文庫)

キケロー書簡集 (岩波文庫)

古代ローマの書物事情


WOWOWで放送中の『ローマ』を見ている。
それなりに面白いのだが、見ている自分に古代ローマ史の基礎知識が欠けているのが、よくわかった。

幸いなことに、ローマの通史に関しては、私たちは『ローマ人の物語』(塩野七生著)という、わかりやすくしかも面白い、優れた本を持っている。
カエサルからアウグストゥスにいたる『ローマ人の物語』の数巻を読み、基礎知識を持った上で、『ガリア戦記』・『内乱記』・『プルターク英雄伝』・キケロの著作や書簡、さらにはタキトゥスの『ゲルマニア』・『同時代史』・『年代記』まで、読み進もうと思っている。

これが、結構面白く、ついつい『書物史』の本を読むのも、なおざりになりがちだ。


で、『ガリア戦記』である。
紀元前1世紀に書かれた本の翻訳を、寝転がって文庫で読めるということ自体が、不思議な気がする。
この書物の写本を作り続けたヨーロッパ中世に恩沢を十分に受けている。
ちなみに、岩波文庫の解説(近山金次)によれば、『ガリア戦記』の重要な写本は、十指にあまるという。


一方、他の疑問が起こってきた。
手元にある岩波・世界史年表(歴史学研究会編)は、紀元前51年の項に、『ガリア戦記』刊.とある。
紀元前46年に書かれたとされるキケロの「ブルートゥス(ブルータス)」の中に、カエサルの雄弁を論ずるのに関連し

彼(カエサル)は、同様に、自分の人生についての手記を書いた。この手記は、本当に称賛に値する。それは、自然で、シンプルで、優美であり、雄弁術の装いに飾られていない。*1

この後に、称賛のことばが、さらに続くのだが、これが『ガリア戦記』について語られていることは、間違いないと考える。
紀元前46年には、読まれていたわけだ。

しかし、「刊」という言葉に引っかかった。これは、「出版」する、という意味だと思う。
(むろん、印刷はしないが)

古代ローマの本、あるいは「出版」とは、いかなるものだったろうか? という疑問である。


まず、本について考えたい。

紀元前1世紀のこの時期、支配階級、上層階級、知識階級に、本が普及していたことは間違いない。

『読むことの歴史』(ロジェ・シャルティエ他編 グリエルモ・カヴァッロ論文)の中で、カエサルに攻められた小カトーが自死する前が、取り上げられている。
プルターク英雄伝』によれば死の直前、小カトーは食事の後、読書にふける。

自分の部屋に入り、彼は横になり、プラトンが魂について論じている本(パイドン)を手にした。彼は、本の大部分を一読した。そして、頭上を見上げたが、吊るしてあるはずの剣が見当たらなかった。(というのも、彼の息子が、カトーがまだ食卓に着いている間に、剣を片づけてしまっていたのだ)カトーは奴隷を呼び、剣を持ってくるように命じた。奴隷は押し黙り、カトーは本を読むことに戻った。*2

小カトーはポンペイウスにくみして、カエサル軍とシシリアで戦い、アフリカに落ちのびる。
最後は、カエサルに包囲され、北アフリカ、ウティカで自死するのだが、その死の直前に、
状況にふさわしい魂の不滅を記したプラトンの本を選んで読んでいるのだ。
少なくとも内乱の間、持ち歩ける本が何冊もあったか、あるいは北アフリカでも選べるくらいに本が普及していたか、いずれかの証左であろう。

また、カトーは、寝転がって本を読んでいるようだ。(仏訳では“il se coucha”、英訳では“lying down”となっている)
古代ローマでは、食事も長椅子に横になってしていたと聞くから、不作法な格好ではなかったのかもしれない。
いずれにせよ、この当時の本は、巻子本である。
寝そべって読めるような、簡易なものがあったのだろう。

この他に、キケロの紀元前56年の書簡の文中に「ここの家においた書庫では、テュランニオーがわたしの書巻を整理して」(世界文学大系67・筑摩書房 昭和41年発行 泉井久之助訳)とある。
また、時代は下るがアウグストゥスが娘の子のところに行くと「子供はキケロの本を手にしていたが」(プルタルコスプルターク)英雄伝 キケロ)という記述がある。
少なくとも、上層階級・知識人階級に、本が浸透していたと考えられる。

では、この本は、どのように入手されていたのだろうか?


本屋があったのである。

ローマ帝国の「本」のセンターはローマである。(略)いまやローマの種々の場所に本屋が見られたが、交通の激しい場所が選ばれるのはいまも変わらない。フォーロ・ロマーノの辺りにとくに多かった。
                       「パピルスが伝えた文明」p148

カエサルの時代の本屋は)マルティアーレスの詩によると、戸口の左右の柱にはいっぱい書きこみがなされており、人々はあらゆる詩人の作品をすばやく見つけることができる。戸口にはまた陳列台がおかれ、取扱い書籍の書名を書き出すか、またはレッテルをはりつけてある。本自体は戸口には展示していない。というのはパピルスの巻子本は、それ自体ほとんど展示の役に立たなかったからだ。しかし店の中に入ると、マルティアーレスが「巣穴」と呼んだ多くの書架があり、それは我々の本棚に似たものであっただろう。その書架では、巻子本は、おそらく木製あるいは瀬戸物の容器に入れて置かれるか、あるいは直接本棚の上に置かれていただろう。
                        「パピルスが伝えた文明」p158

それでは、「刊」・出版はどうなっていたのか。
教えてくれるのは、キケロの書簡である。
                         (この項続く)

ローマ人の物語〈8〉ユリウス・カエサル ルビコン以前(上) (新潮文庫)

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ガリア戦記 (岩波文庫 青407-1)

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読むことの歴史―ヨーロッパ読書史

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プルタルコス英雄伝〈下〉 (ちくま学芸文庫)

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パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち

パピルスが伝えた文明―ギリシア・ローマの本屋たち

『解体新書』の扉絵


8月末、TBSの『世界遺産』で、『 プランタン−モレトゥスの家屋・工房・博物館複合体』の放送があった。
http://www.tbs.co.jp/heritage/archive/20070826/onair.html


放送内容には、やや不満が残った。
まず、30分の民放の番組で(つまりCMを考慮すれば、30分を切る)ウワ面をなめただけのような内容だった点。
さらに、プランタンが、まるでカトリックの布教者のように語られたように感じられた点だ。


番組最後のクレジットに、監修・宮下志朗と見た時は、はっきり驚いた。
宮下の書物によって、プランタンが「愛の家族」と呼ばれる再洗礼派(ミュンスター反乱を始め、宗教改革の最過激派といっていい)の流れを汲むと推測される秘密結社のメンバーだったことを知っていたからである。
アイゼンシュタインは、プランタンとフェリペ二世の顧問官で宮廷学者でもあったモンターノとの親密な関係について述べ、次のように書いている。


著名な対抗宗教改革派の学者でもある優秀なカトリックの役人が、実際には、こともあろうにエスコリアル宮の地下深く破壊的な「細胞」を組織する仕事に携わっていた
エリザベス・アイゼンシュタイン『印刷革命』190〜191P


アイゼンシュタインは、異端(カトリックから見てだが)の教義を奉ずるものの代表的印刷者として、プランタンを上げているのだ。


世界遺産』としては、調和的な人格者にしたいといういとかもしれないが、ちょっと納得できないという印象を持った。


そんなこともあり、しばらく前、印刷博物館に行った際に購入した「プランタン=モレトゥス博物館展」のカタログ『印刷革命がはじまった――グーテンベルクからプランタンへ』を読んでみた。(このカタログは、まだ購入できるようだ。)
http://www.printing-museum.org/floorplan/shop/index.html


興味を覚えたのは、中西保仁の『オフィシーナ・プランタニアと日本』という一文であった。


その中で、『解体新書(1774年、安永三年・須原屋市兵衛)』の扉ページが、本来の『ターへナルアナトミア』の本来のページではなく、プランタン印刷のワルエルダ『Vivae imagine partium corporis humani aereis formis expressae(1579年)』からの引用(複製・複写)であることを知った。
筑波大学およびGALLICA・フランス国立図書館のサイトでそれぞれ見ることができる)
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/jyousetu/nihon/kaitai.html
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k206031f



さらに、ライデンやアントワープのオフィシーナ・プランタニアで印刷されたドドネウスの『Cruydt-boeck・草木誌(ライデンで印刷されたのは1618年)』が、江戸期の日本に多く入り、大槻玄沢『六物新志(1785年、天明六年・木村兼霞堂蔵版)』や森島中良『萬國新話(1789年、寛政元年・藤屋浅野弥兵衛)』や、さらには平賀源内の「物類品隲」に引用されていることも知った。

『Cruydt-boeck・草木誌』は、東京薬科大学のサイト
http://libnews.bus.toyaku.ac.jp/kikobon/plant/plant002.htm

『六物新志』(ニクヅク図・Cruydt-boeckの1393pの図)は、京都大学のサイト
http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/fy4/image/01/fy4s0034.html

『萬國新話』(根樹之図・Cruydt-boeckの1415pの図)は、九州大学のサイト
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/bankokusin/page.html?style=b&part=2&no=10


須原屋市兵衛が、江戸を代表する書物問屋であることは、いうまでもない。
プランタンの書物と、江戸市中屈指の書物問屋・須原屋との出会い。


遠くにあったものが、本当は親密だったことを知らされた思いがする。


中西はさらにさかのぼって、天正遣欧使節団が持ち帰った本の中に、プランタンの印刷した本が含まれていたことを推論する。
天正十八年(1590年)、使節団は帰国するのだが、この年はプランタンが亡くなった翌年にあたる。


史料は、キリシタン弾圧の中で失われた可能性があり、現存するものはないようだが、高い蓋然性を感じる説である。


印刷革命

印刷革命